天路歴程

日々、思うこと、感じたことを詩に表現していきたいと思っています。
なにか感じていただけるとうれしいです。

無風地帯

2013-06-30 22:02:09 | 小説
快晴。雲ひとつない、濁りのない青空。朝方の清々しい空気に、真夏のねっとりした熱気が混ざりはじめていた。私は息を吸い込み、自転車をこぎ続ける。走る道の右手には、海が広がっていた。夏特有のセルリアンブルー。内海なので、波は穏やかだった。海のそこかしこに島影が見える。私はいつもここを走り抜けるたびに、海のミニチュアを見ている気分になる。それから、いつも同じ光景を思い出す。この海が好きだった母を連れて海岸をさまよったことを。それは「散歩」ではなく、「彷徨」であった。いつもあてどなく、どうしたらよいのかわからず、途方にくれていた。それでもこの海岸を歩くことは、母にとっても、私にとっても、「凪」の時間であった。


七、八年前の記憶。初夏の風が吹く頃。母と私は海沿いの遊歩道を歩いていた。空も海も春の名残りをとどめ、おっとりとした浅葱色をしていた。母はゆっくりゆっくり歩いていた。おぼつかない足取り。私は帽子を嫌がる母のために、日傘を差しかけながら、歩調を合わす。母はその当時、六十前後であったが、とてもそうには見えなかった。痩せこけて、顔はどす黒く、すぐに息があがってしまう。彼女はあるものにすべてを奪われてしまっていた。美貌も健康も未来もそして過去も。母はアルコールに依存していた。その結果、肝臓は侵され、脳は萎縮し、明日をも知れぬ体となっていた。私は不安と悲嘆、そして憤怒を抱えながら、母の「影」として彼女に付き従っていた。