天路歴程

日々、思うこと、感じたことを詩に表現していきたいと思っています。
なにか感じていただけるとうれしいです。

無風地帯

2013-07-15 12:09:51 | 小説
母は機嫌が良いようだ。穏やかな顔をして、きらきら輝く海を見ている。体調も良いようだ。足取りはゆっくりだが、ふらついてはいない。私はほっとしながら歩いていた。母が私のほうを見た。
「ねえ、お母さん、もっと海のほうに行っていい。」
今日は彼女にとって、私は母親のようだ。母は日によって、時間帯によって、認知感覚が違った。正常に見えることもあったし、異常に見えることもあった。私には見えないものを見て、聞こえないものを聞くこともあった。(幻視幻聴であるが、そう言いきるのはなんだか忍びない。母にとってはそれはまぎれもない事実だったのだから。)私はしばしば母にとっていろんな相手に変容した。母親だったり、幼馴染のすみちゃんだったり、お手伝いさんだったり、追いはぎだったり。もちろん、自分の娘だと認識することもある。時々、母の頭の中はいったいどうなっているのかのぞいてみたいと思うことがあった。そして、母親の言うことは肯定もせず、否定もせず対応するようにしていた。もちろん、いつも冷静に対応することはできなくて、しばしば感情的になってしまったが。

とにかく今、母親は海の縁に行きたがっていた。私は少しためらった。ここら辺は海と遊歩道の境目に、柵があるので落ちる心配はないのだが、今いる場所から海のそばに行くには階段を下りなければならない。母の体力に不安があった。下りられたとしても、帰り上がることができるだろうか。母はなおも頼む。
「ねえ、ねえってば。」
まあ、いいか。母が疲れて動けなくなったら、階段はおぶって上がり(母は驚くほど軽くなっていたのだ。)、帰りはタクシーを呼べば言い。
「じゃあ、ゆっくり下りて。手すりを持って。」
「わかってる。」
母は手すりを持って注意深くそろりそろりと下りる。手だしをすると怒るので、私は黙って見守るだけだ。母は一段一段下りる。手すりを持つ手は枯れ木のように細く、乾いていた。血管の浮き出る手。その手はあまりにも哀しかった。私は母の手からそっと目を逸らした。