天路歴程

日々、思うこと、感じたことを詩に表現していきたいと思っています。
なにか感じていただけるとうれしいです。

無風地帯

2013-07-22 20:37:32 | 小説
母と二人して、海の側に佇んでいた。穏やかな内海は、たぷたぷと絶えることなく小さなさざ波を作り続けていた。潮のかおりは強く私の鼻をくすぐった。母はしばらく無言で海を見ていたが、ふいに私に尋ねてきた。
「ねえ、あきちゃんはどこにいるの。」
あきちゃんというのは、私の弟の章雄のことだ。その当時、ちょうど大学を卒業し、就職して家を出たところだった。
「あきちゃんは今年就職して、××市に行ったんだよ。」
「あ、そうなんだ。」
母親は納得したような顔をする。そして、数分後、
「あきちゃんはどこにいったの。」
「あきちゃんは就職して、××市にいるのよ。」
「あ、そっか。」
母親は頷いた。それからまた五分もたたないうちに、罰の悪そうな顔で、私に聞く。
「あの、あきちゃんはどこにいるんだっけ。今、何してるの。すぐ忘れちゃう。」
忘れることがわかっているのなら、今日は調子がいいようだ。
「大丈夫だよ。何回聞いてくれてもいいからね。大学を卒業して、今は働いてるよ。××市で一人暮らしをしてる。」
母はほっとしたような顔をした。わかっているのかいないのかわからないけれど、優しい顔をしていた。自分の息子のことを心にかけているのだろう。母は海に顔を向けた。海風が母のぱさついている髪をなぶった。私は母の髪をちゃんと梳こうと思った。母の髪を美しくしたかった。母の失ったものを少しでも取り戻したいと思ったのだ。海かもめが鳴いていた。母はまた、私のほうを振り向いた。