天路歴程

日々、思うこと、感じたことを詩に表現していきたいと思っています。
なにか感じていただけるとうれしいです。

無風地帯

2013-07-28 13:44:15 | 小説
薄暗い照明。壁から剥がれかけたポスター。ゆらゆらと歩き回る生気のない入院患者。看護助手のぶっきらぼうな大きな声が響き渡っていた。アンモニアの臭いが漂う。夕闇が濃くなる時刻。仕事をしていた私はこの時間に母に会うのが常だった。母の病室に向かう。
「お母さん、調子どう。」
私は母の顔をのぞきこむ。六人部屋で、ベッドはぎゅうぎゅうだ。ちょうど夕食が終わったようだ。看護助手がトレイを片付けていた。だいぶご飯は食べてくれているようだ。ほうれん草のおひたしのようなものだけが少し残っているのみだった。近くにいた看護助手に様子を聞く。
「あの、ご飯食べてますか。」
太り気味の女性だった。白髪交じりの髪をひっつめていた。がらがらした声で答える。
「ええ、夕飯はほとんど食べてます。ほうれん草だけは歯に引っかかるみたいではきだしてたけど。」
「朝や昼はどうでしたか。」
「食べてましたよ。」
倒れる前の母はそれこそカロリーはアルコールで取っていたのではないかと思うほど、食事に手をつけていなかった。その時に比べたら、母の頬がふっくらしていた。私は少しほっとした。
「でもねえ。」
看護助手は軽く笑った。
「同室の人のジュースまで飲んじゃおうとするから。」
「すいません、ご迷惑をおかけして。あの、お代金とかは。」
「あ、実際はまだ飲んでないから。ま、ちょっとあれだねえ。」
看護助手は鼻で笑うように答え、また何か言おうとしたが、もう母にこれ以上聞かせたくなかった。
「いつもご迷惑をおかけして、申し訳ありません。お仕事中にお手を煩わして、失礼いたしました。」
私は頭を下げた。
「あ、いえ、いいですよ。」
看護助手はもごもごと返事をし、トレイを持って立ち去った。母はそのやりとりの間、宙を見つめたままだった。私は母に聞く。
「りんごジュース持ってきたんだけど、飲む。」
「そこにいる男の子にあげなさい。」
「え。」
反射的に後ろを振り向く。同室のおばあさんがベッドでテレビを見ていた。むっとした顔でカーテンを閉められた。母はなおも宙を見つめたまま話す。
「ああ、たかちゃんだったのね。遊びに来てくれたの。お母さんは。一人できたの。遠慮しないで、こっちおいで。」
誰と思いながら、私は母を見つめていた。母は私を見て、驚く。
「いや、たかちゃん、お母さんいるじゃないの。こんにちは。お久しぶり。今日はどうしたの。」
私は面食らった。
「お母さん、たかちゃんて誰。」
「何言ってるの。和歌子さん、自分の息子でしょ。まだボケる年でもないでしょうに。それで、何に乗ってきたの。今日はここに泊まっていく。」
「…とりあえず、ジュース飲もうか。」
母にジュースの紙パックを渡した。母は逆らわずにごくごく飲む。
「和歌子さんもどうぞ。」
「いや、あのね…。」
「もうそんな、遠慮しないで。」
私は困惑しながら、時計を見た。面会終了の時刻が迫っていた。
「お母さん、私もう帰るね。」
「もう帰るの。泊まっていったらいいのに。」
母はとても寂しそうな顔をする。
「また明日くるから。」
私は後ろめたく思いながら、返事をした。さっきと違う看護助手の人が入ってきた。
「そろそろ、面会時間終わりますが。」
「あ、はい。じゃあ、お母さん、また来るね。」
私は看護助手に会釈して、病室を出た。陰鬱な廊下を歩きながら、決心する。明日、ここの先生と話しをしよう。