天路歴程

日々、思うこと、感じたことを詩に表現していきたいと思っています。
なにか感じていただけるとうれしいです。

梅花香10

2019-02-24 12:54:55 | 小説
「清さん、かりんとうおくれな。」

一人の芸者が声をかける。銀鼠色の

唐桟(とうざん)に黒羽織を引っかけ

て素足に桐の下駄。左づまを取った立

ち姿はすらりとして仇っぽい。

「小勘(こかん)姐さん、いつもあ

りがとうございます。」

清吉は小勘に丁寧にあいさつをした。

深川随一の流行り奴で、素晴らしい三

味線の腕と無類の声を持っていた。

すきっとした美貌と気の強い、はっき

りとした気性が人気の源だった。清吉

の上得意の客の一人だった。小勘は上

機嫌だった。

「なにさ、水くさい。清さんの声が

あまりにもいいから、思わずぼうっと

なってついつい買ってしまうのさ。」

清吉の顔が真っ赤になる。声が少し

震えた。

「姐さん、からかうのはよしてくだ

せえ。」

「おや、赤くなってかわいいねえ。」

「お座敷抜けてきたんじゃありませ

んか。早く戻らないとまずいんじゃな

いんですか。」

「憎らしいねえ。はぐらかすつもり

かえ。」

小勘はそう言いながらかりんとうを

清吉から受け取る。清吉に銭を渡す瞬

間に彼の耳元でささやいた。

「今夜九つ(午前零時頃)に近くの

お稲荷さんで待ってて。」

清吉は空耳かと思って、小勘の顔を見

る。

「…え。」

小勘は色気のある涼しい目元で彼を

にらむ。

「二度は言わねえよ。」

下駄の音も軽やかに小勘は去って

行った。清吉は胸の高鳴りを抑えるこ

とができなかった。生温かい春の風が

吹いた。心が騒ぐような春の夜だっ

た。

梅花香9

2019-02-24 12:53:26 | 小説
「かりんとう、深川名物かりんと

う。」

若かりし頃の清吉。その頃は夜、花街

で商売をしていた。特に、かりんとう

売りの口上のごとく、深川界隈を売り

歩くことが多かった。清吉はいきで気

風がよくて、あっさりした深川の土地

柄が好きだった。いつもだいたい同じ

ところをまわっていたので、顔なじみ

の客もできた。かりんとう売り名物の

大きなちょうちんに灯がともってい

る。月はさやかに輝いていた。そこか

しこの料理屋から煌々と明かりがも

れ、芸者たちの嬌声や客たちの笑い

声、三味線の音に長唄が流れてくる。

今は深川が一番活気のある時刻だ。清

吉のかきいれ時でもあった。清吉は声

をはりあげた。

「かりんとう、深川名物かりんと

う。」


梅花香8

2019-02-24 12:52:23 | 小説
「清吉さんはいい声をしていらっ

しゃいますね。」

今日はどうしたのだろう。清吉は苦

笑する。

「同じことを言われたよ。今日はこ

れで二回目だ。」

「あら、おもてになりますこと。」

「そんなんじゃねえよ。いつもかり

んとうを買ってくれるなじみの嬢ちゃ

んに言われたのさ。」

「そのお嬢さんはお目が高いこと。

温かくて優しい声は清吉さんそのもの

ですもの。」

清吉は居心地が悪くなる。ある出来

事を思い出してしまった。もうこの話

は終わりにしたかった。

「顔は鬼瓦だけどな。」

穏やかだが、この話を打ち切るかの

ようにきっぱりと言った。清吉の思

うところを感じたのだろう、おこうは

そっと口をつぐんだ。気遣うような目

で彼を見る。おこうにはまったく関係

がないのに、少しきつい口調になって

しまった。清吉は悪いことをしたよう

な気分になる。忘れたと思っていたこ

となのに、触れられると痛んだ。古傷

というのはなかなか治らないものだと

清吉はほろ苦く思う。おこうはただ

黙っていた。気詰まりな感じではなく

清吉に寄り添うような、彼を思いやる

ような沈黙だった。清吉はふと、この

古傷をおこうに話してみようかと思っ

た。今まで清吉はこの話を誰にもした

ことがなかった。とてもささいな話だ

し、かといって、笑われたり茶化され

たりしたら、自分が立ち直れないとい

うのはわかっていたからだ。しかし、

なぜだか清吉はおこうにこの昔話を聞

いて欲しくなった。おこうならちゃん

と耳を傾けてくれそうな気がしたの

だ。彼はおこうの目を見つめる。

「あのね、おこうさん、昔話なんだ

が、聞いてくれるかい。」

おこうはうなずく。清吉は静かに話し

出した。

「おいらが若い頃の話だ…」


梅花香7

2019-02-24 12:50:37 | 小説
おこうは受け取り、かりんとうを口

に入れる。食べたとたんに彼女は目を

丸くする。驚いたようにおこうは言

う。

「こんなにおいしいもの、はじめて

いただきました。」

「そうかい。じゃあ好きなだけおあ

がりなせえ。」

おこうは無心に食べ始める。その童女

のようなふるまいに清吉は、もしかし

てやんごとなき身分のかたじゃなかろ

うかと思い至った。だとしたら、浮世

離れしたところも、気品があるところ

も合点がいく。そうに違いない。清吉

は一人で納得していた。おこうは半分

くらい食べたところで袋を丁寧に閉じ

て、清吉に返す。

「ごちそうさまでした。本当におい

しゅうございました。」

「あれ、もういいのかい。」

「はい。清吉さんの分がなくなって

しまいますから。」

「おいらのことは気にしなくていい

のに。」

「いいえ。そういうわけにはまいり

ません。」

お互い無言になる。おこうはすっと

前を見る。清吉はそっとおこうを見

る。そんなに若くはない。笑うと目尻

にしわができる。でも瑞々しい生気が

みなぎっていた。白くてしなやかな指

や花びらのような唇、まっすぐに伸び

た背筋。あでやかさと凛としたたたず

まいが清吉の心をとらえる。ふいにお

こうは清吉のほうを向いた。

梅花香6

2019-02-24 12:48:15 | 小説
女は小豆色の霰小紋の着物に黒繻子

の掛け襟と帯を身につけ、眉を落とし

丸髷を結っていた。愛嬌のあるふっく

らとした頬と白い肌、優しい目元をし

ていた。清吉は近在に住むどこかのお

かみさんかと思ったが、それにしては

浮世離れしすぎていた。女は微笑んで

会釈をした。その時に白い歯がちらり

と見えた。清吉は慌てて会釈を返しな

がら、お歯黒をしていないからひとり

ものだが、妾だろうかと考えた。それ

にしては、仇っぽさを感じない。彼に

は女がどういう身分なのか、さっぱり

見当がつかなかった。女は立ったまま

だ。清吉はその女に床几を勧めた。

「まあ、お座りなさい。」

「ありがとうございます。」

少し低めながら柔らかい声で女は応

え、清吉の隣に座る。きりっとしてそ

れでいて甘い香りが、清吉の鼻をくす

ぐった。

「おめえさん、名はなんていうんだ

い。」

女は青い眉根を寄せて、小首をかし

げる。清吉は自分の素性を明らかにし

てないから、女が警戒しているのだと

思った。

「おいらは清吉ていうんだ。かりん

とう売りの清吉ていやあ、だいたいこ

のあたりの人間は分かってくれる。怪

しいもんじゃねえよ。」

女はにっこりと笑う。白い歯がこぼれ

る。

「清吉様ですか。わたくしはこうと

申します。」

「おこうさんか。いい名だね。あと

悪いけど、清吉様はやめとくれ。呼ば

れるたびに、尻がこそばくなっちま

う。」

「じゃあ、なんとお呼びしたらよい

のですか。」

「そうだねえ、清さんとか、清吉さ

んかね。」

おこうはこくんと真面目にうなずい

た。清吉は足元の木の箱から袋を取り

出し、おこうに差し出す。

「かりんとう。残りもんだけど、よ

かったら食べとくれ。」