天路歴程

日々、思うこと、感じたことを詩に表現していきたいと思っています。
なにか感じていただけるとうれしいです。

梅花香5

2019-02-24 12:47:07 | 小説
この神社の境内にはたった一本だけ

梅の木がある。古い梅の木で、幹には

いくつものこぶがあった。この季節に

なると白梅が咲き、えも言われぬ香り

が漂う。ごつごつとした幹と可憐な白

い花の取り合わせが清吉の目には好ま

しく映った。毎年、彼はここの梅の花

を見るのを楽しみにしていた。梅の木

の下には床几が置いてあった。清吉は

木の箱を下ろした。床几にゆっくりと

座る。梅が優しく香る。清吉が梅の花

を見上げた瞬間、激しい風が巻きお

こった。境内の砂が舞い上がる。清吉

は慌ててふところから手ぬぐいを出し

て顔を覆う。すぐに強風は止んだ。彼

は手ぬぐいを顔から外す。目の前に、

女が一人立っていた。


梅花香4

2019-02-24 12:46:47 | 小説
こじんまりとした神社の境内。ここ

の宮司はきれい好きなのだろう。境内

は掃き清められ、すがすがしい空気に

満ちていた。清吉は仕事が終わると、

ここの神社に参拝するのが日課になっ

ていた。小さいながらもきちんとゆき

とどいた手入れのされたこの神社は、

心休まる場所だった。清吉は手ぬぐい

を首から外し、手水舎で手を清めてか

ら拝殿に向かった。拝殿で賽銭箱に銭

を入れて鈴を鳴らし、柏手を打つ。彼

はただ無心で祈る。清吉が参拝を終え

ふりむくと、宮司が立っていた。ここ

の唯一の神官である彼は、静かに会釈

する。清吉も会釈を返す。白の袴に白

の狩衣、烏帽子をかぶった宮司は清吉

と同じくらいの年格好だった。穏やか

に清吉に声をかける。

「清吉さん、いつもご信心なことで

すね。」

「いやあ、仕事終わりにここに寄ら

ないとなんだか心持ちが悪くて。つい

でといっちゃあ、失礼にあたります

が。」

「いえいえ。清吉さんほど熱心にお

参りされるかたはありませんよ。」

「参るといっても、ただ手を合わせ

ているだけですがね。」

「何も考えず、ただ神様の前で真剣

に祈るということはなかなかできない

ことですよ。」

清吉は何と返していいかわからな

かった。沈黙が漂う。宮司は話を変え

る。

「そういえば、ようやく梅がほころ

んできました。よろしければ、梅を見

ていかれたらいかがですか。」

「へえ。そうさせて頂きます。」

宮司はうなずいて、そのまま社務所

に向かった。境内に静寂が戻る。木々

のにおいが強くなった。


梅花香3

2019-02-24 12:45:37 | 小説
清吉は川の土手を歩いていた。日は

西に傾きかけ、川風が吹いて少し肌寒

かった。清吉はふところから豆しぼり

の手ぬぐいを出し、首に巻く。今日は

おもしろいようにかりんとうが売れ、

思ったより早い時間に店じまいとなっ

た。かりんとう売りの本当のかき入れ

時は夜である。宵っ張りの江戸っ子に

とって、かりんとうは手軽な夜食で

あった。吉原や深川、その他の花街を

夜徘徊すれば、結構な見入りとなっ

た。しかし、清吉はあまり夜に売り歩

くことはなかった。昼間、子供や長屋

のおかみさん、小腹のすいた職人や物

売りを相手にしていた。細々と商売を

するのが性に合っていた。清吉は気楽

なひとり身の長屋ぐらし。お金に頓着

することなく、自分の好きなように生

活することができた。彼には激しい欲

望も強い野望もなく、恬淡としてい

た。下戸なので酒は飲めない。晩酌が

わりに、かりんとうと茶を飲むのが清

吉の楽しみだった。だから、彼はいつ

も最後の一袋はとっておくことにして

いた。清吉は軽くなった木の箱を持っ

て、ある場所に向かっていた。


梅花香2

2019-02-24 12:44:45 | 小説
「おじさん、かりんとうおくれ。」

十歳ぐらいの女の子が清吉を呼び止め

た。稚児髷を結い、橙色の地に茶色の

千鳥模様の入った肩揚げの着物を着て

いた。その子はおみちといい、ここの

表通りの角にある「和泉屋」という絵

草紙屋の娘であった。おみちは清吉の

顔なじみの客だった。清吉は顔をほこ

ろばす。

「おみち坊、今日はもう手習いは終

わったのかい。」

「うん。でももう少ししたら、三味

線のおさらいをしなきゃいけない。」

「そりゃ難儀なこったね。」

おみちはりこうそうな目をくるくるさ

せて言う。

「おっとうはそんなに頑張らなくて

いいて言うんだけど、おっかあがいざ

という時のために習わせたほうがいい

って。あたしは手習いも三味もすきだ

から、苦じゃないのさ。」

「そうかい。おみち坊が嫌じゃないな

ら万々歳だ。」

清吉は木の箱からかりんとうの入っ

た紙袋を取り出し、おみちにその紙袋

を手渡した。おみちはそれを受け取

り、たもとから銭を取り出した。

「へい、まいどあり。」

清吉は微笑んだ。おみちもにっこり笑

う。

「あたし、ずっとおじさんに言いた

かったことがあるんだ。」

「へえ。なにかね。」

「あのね、あたし、おじさんの声が

好きなんだ。おじさんの声を聞くと落

ち着く。」

清吉は唐突なおみちの言葉に戸惑う。

「へ。おみち坊においらの声をほめ

られるとは思わなかったね。」

おみちはこまっしゃくれた顔をする。

「顔は鬼瓦みたいだけど。」

清吉は苦笑する。

「大人をからかうもんじゃないよ。」

おみちはちょっと舌を出す。それから

ちょっと真面目な声になる。

「でも、おじさんの声がいいのは本当

だよ。」

おみちはかりんとうの袋を抱え直す。

「いっけない、早くうちに帰らな

きゃ。」

清吉が何か言う前に、おみちは走り

去った。清吉はあっけにとられてい

た。頭上にはとんびがぴいひょろろと

鳴きながら、円を描いて飛んでいる。

梅花香1

2019-02-24 12:42:46 | 小説
「かりんとう、深川名物かりんと

う。」

三月のうららかな昼下がり。清吉は

のんびりと呼び歩く。彼は青縞の袷を

裾短に着て木の箱を肩にかけ、深川名

物と書かれた大きなちょうちんを右手

にさげている。かりんとう売りは昼夜

問わず、この大きなちょうちんを持っ

て売り歩く。遠くで八つ(午後二時)

の鐘がなった。表の大通りには大店が

並び、往来にはさまざまな人々がいき

かう。たくさんの荷を乗せた大八車が

砂ぼこりをあげて通り、近くにいたお

使い途中の丁稚が大きなくしゃみをす

る。天秤棒をかついだ魚屋が威勢よく

通りすぎる。縫い物の稽古が終わった

娘たちが笑い声をあげている。清吉は

いろんな人々を見るのが好きだった。

道行く人々の間をぬって売り歩くこの

商売が気に入っていた。あっけらかん

と明るく、乾いた江戸の街で歩き回っ

て商売をする。それは天職だと思って

いた。彼はかりんとうの入った木の箱

を肩にかけ直し、ゆったりと売り声を

あげる。

「かりんとう、深川名物かりんとう。」