No⑨
No⑨は私の二つの故郷についてです。
最初は大分県竹田市
九州の真ん中辺り、山の中の盆地です。
大分県と熊本県の境辺りの古い城下町です。山また山のその奥の自然環境豊かな盆地の町でした。北に久住連峰、西に
阿蘇山そして南に祖母・傾山の九州の屋根が聳え立ち、東に向かっては大河・大野川と合流する沢山の河川が流れ出し
ています。
私はこの小さな町に生まれ、22才まで育ち小学校・中学校・高校・大学と私の青春時代をすごしました。
40才を過ぎて知ったのですが、私のご先祖は400年前に越後の国から流れ着いて「渡邊」と名を変えお城の下級武士
として生きてきたのでした。したがってこの町は私の墳墓の地でもあります。
私はこの自然環境に恵まれた町で山野を駆け巡る、まあ山猿のような少年として育ちました。今でも思い出すのは駅裏の崖
の上に立ち山々の大きな大きな自然の景観と崖下の城下町を眺めて、小さな野心を燃やしていたことです。
高校の校歌の一節「清きを誓い気を練れと」の気分だったと思います。
私が子供の頃竹田の町は大分県で10番目ぐらいの中核都市でそれなりに賑わっていました。
夏には夜市が開かれ家族皆で町に繰り出して楽しんだものです。時には蒸気機関車に乗って一時間あまりで県庁
のあった大分市まで出かけることもありました。新調した服や靴を履いて晴れの舞台でもありました。
その町で小学校、中学校、高校と通う普通の少年だったのです。ただ少し早熟で「頭」が良かったらしく、何となく
クラスのリーダ-的な存在だっと思います。当時は子供達の数も多くてすし詰め教室でしたが、共に学び共に遊び、
それなりに楽しく暮らしていたと思います。将来の夢は漠然としていましたが密かに「大志を抱け」の気概があった
と思います。
高校の三年間、毎年周辺の山々の麓を回る40kmの競歩大会も良き思いででした。腰に弁当を下げて全校男子千数百名
が同時にスタ-トして厳しい山岳コ-スに挑んでいくのでした。これで随分と体力が鍛えられたと思います。
女子も20kmのやや平坦なコースだったと記憶しています。
そして22才・・・・
福岡の大学を卒業するにあたって私はこの住み慣れた町を出ていく決心をしました。
それはこの小さな町には農業か商店の後継者になる以外に働く場所がほとんどないためでした。ちょっとだけ開いて
いたのは学校の先生か公務員ぐらいでそれもかなり狭き門でした。つまり働き口がなかったのです。
そして若者たちは次々と町を出ていき、今この町は過疎と高齢化の波が押し寄せ、かっての人口は半減して平均年齢が
60才を超える「限界集落」に近づいて町自体が滅の危機となっております。
時代は私の若い頃とは激変してしまったのです。
今でも私は生まれ育った故郷であるこの町を愛しており、この町を存続させるために色々と苦心惨憺しているところです。
それはどこにもあるように田舎の地方都市独特の様々な問題点があることは認めざるを得ませんが、この件についてはまた項
を改めて考えたいと思います。
二つ目は神奈川県藤沢市
神奈川県の南、いわゆる湘南海岸の町です。南には相模湾そして北には丹沢山塊、西には箱根・伊豆半島の向こうに
富士山が聳え立ち、東側の隣町は古都・鎌倉です。東海道線で東京まで一時間、小田急線で新宿まで一時間の東京の
ベッドタウンです。都会のビル街と田舎の田園風景が並立する風光明媚な暮らしやすい町です。
私は27才で会社の社宅のあった鎌倉市・大船地区で8年暮らし、そこから5kmほど西の藤沢市小さな家を買って
そこで現在に至る42年暮らしております。会社は本社が東京、工場が川崎でしたので、30年以上毎日東海道線に
乗って通勤したものです。この地で子供が生まれ育ち、子供にはこの町が故郷であります。
この町の特徴は「人情にあふれた町」であることです。東京や横浜などにみられる「キリキリ・ギズギスした空気」
感があまりなくて、まあ昔の農村のユッタリ感が残っていることを私は強く感じています。私の仕事場は東京が中心で
30年あまり毎日電車で往復していて、何となく各駅ごとの町の雰囲気が分かってきたのです。
そこでの暮らしは・・・
特記すべくは少年野球のコーチを13年やったことでしょうか。息子の付き添いのつもりが同じユニフォ-ムを着て
グラウンドを飛び回ることになったんです。コ-チの仕事はノックをして守備を鍛え、バッティングピッチャ-として
打撃を鍛えることなんですが、なぜか私はそれが上手で?すっかりハマってしまいました。
それよりもコーチ仲間のお父さんたちやお手伝いのお母さんたちと仲良くなって時には大宴会などをしたことが私には
有難かったです。会社で一日の暮らしに、土日休日は野球の生活が加わって充実した日々となりました。子供達が卒団する
ときは涙の卒団式を何度も迎えました。幼かった子供達の成長がそれは嬉しかったのです。
そんなわけでタダ土日に家で過ごすお父さんではなくて、地域の皆さんと交わりともに行動する生活をこの町では
送れるようになったのです。私たちの子供もこの町でまあ順調にそだち、この町には大感謝であります。
私は今ではこの町が大好きです。たぶんこの町で最後を向かえるのでしょうが、特に悔いは残らないと思っています。
この町ではもう一つ新しい発見がありました。それは私のご先祖であるらしい坂東平氏の祖で平良文と言う方のお墓
がは近所の二伝寺というお寺にあったことです。400年前に越後(春日山)・甲府から竹田に流れてきたご先祖の
名前が「川口七太夫平忠勝」だったことからこれはかなりの確率で正しいと思われます。まさかこの地で千数百年ぶりに、
と私は驚き時々お墓参りなどをしております。
ここにも昔からの古い伝承があり、何も問題点がないとは申しませんが、輝く海と遠くの山々を見ていますと実に良い
町だなあ、と私はしみじみと思います。
そんなことで私にとって第二の故郷が藤沢です。
故郷はいいなあ、皆さんもそう感じると思いますが、それが私の実感であります。