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禁煙の話

2017-07-11 15:57:47 | 暮らし
禁煙の話
  この話は私が24年前の1993年3月13日にパソコン通信のBBS(掲示板)とパケット無線RBBS(掲示板)に投稿したものです。従って現在では理解出来ない箇所が含まれているかと思いますが、そのまま掲載しますのでご容赦下さい。

  かの上岡龍太郎氏は禁煙について「人間、一旦志したものを、途中でやめるなんて、そんな、意志の弱い事で、どうするのだ。」「初志は、一生貫徹しなけれ ば、男ではない。」と、言ってました。自分で吸おうと思って吸い出したからには、途中でやめるなんて卑怯である。そんな意志の弱い事で、どうするのだ、死 ぬまで吸いなさい。と、言うのだ。
  その上岡龍太郎氏の檄に反して意志の弱い私は、途中でたばこを吸うのをやめてしまったのです。以下は私の禁煙の経緯です。
  私が煙草を吸い出したのは、18才、大学1回生の時でした。アルバイトで先輩と一緒に仕事をしていると、自然とそうなってしまうのですが、・・・・・・ はじめは、格好よくピースの両切りを吸ってました。1日10本位でした。両切り煙草を唇で濡らさずに吸うのが、うまい吸い方だと教わりました。それから、ハイライトに替わり、吸う本数も20本を越えました。その頃から煙草の害が話題に登るようになってきて、チャコールフィルター付きのセブンスターにかえました。火を付ける道具もマッチからライターへ、ライターはジッポタイプで、親が航空会社に勤めていましたので、よく飛行機のガソリンを貰ってきて入れてました。ハイオクの鉛入りでピ ンク色をしていました。それから、マルマンガスライターが現れ、このライターは故障もしましたが、修理しながら10年以上も使い、マルマンの会社へ持って行ってあげようか、などと言っていたものです。それからダンヒルのゴールドライターを貰ったので惜しげもなく使っていました。お店で値段を見ると結構高価なもののようでした。

  禁煙の、第一章は、20年以上も前(注:1971年)ですが、仕事でアメリカへ行き、その時は1ドルが360円の時代です。1人旅で降りた空港で、相手から来た航空便の封筒を持って立っておれ、迎えが行くから、と言うもので、心細く、まさに水盃ものの出張でした。相手の会社は、これから付き合う会社で、顔も知らない相手ですから、迎えが来なかったら、どうなるのか、と考えると身が縮む思いでした。
  空港に降り立ちますと、誰も迎えに 来ておりません。途方に暮れていますと親切にも声を掛けてくれる人がありましたが、頭に血が昇って何を言っているのか分かりませんでした。たぶん「どうし たのだ?」と聞いてくれていたのでしょう。しばらく経って迎えの人が来てくれまして、やっと安堵いたしました。
  そのアメリカでは、その会社の支配人と社長の家にホームステイし、仕事を始めましたが、困った事に、誰も煙草を吸いません。日本を出発した時は、セブンスターを1カートン持って行き、無くなれば向こうで買えば良いと思っていたのですが、・・・・・・煙草を吸いたいと言えば、灰皿が無いので、食事のお皿を持ってきて、これで吸えというのです。このような状態では、ほとんど煙草を吸う機会が無く、我慢にがまんを余儀なくされました。因みに20年以上も前(注:1971年)のアメリカでも、煙草を吸っているのは黒人か有色人種、白人でもプエルトリコ人や教育程度の低い人で、煙草には「煙草は危険」とアメリカでは既に書かれていましたし、インテリはほとんど吸っていませんでした。要するに教育程度の高い人ほど煙草を吸っていないのです。このような次第で持って行った煙草は吸えず、殆どを残して持ち帰りました。日本に帰り、煙草の量は元に戻りましたが、その後、会社を替りまして、その会社では社長が胃の手術をして胃を切り取り、煙草をやめましたので社員も吸わなくなり、その環境のなかに転入しましたので比較的に吸わなくなり、吸う本数が減少しておりました。

  第二章は、子供に「お父さんの車は煙草臭い」と言われた事が切っ掛けです。それで、煙草が子供に与える害を考え、誰に言われたわけでもありませんが自分で車と家の中を禁煙と決めました。普段、車では渋滞した時などは煙草を吸うチャ ンスなのですが、これをやめました。我慢しました。次に家のなかですが、吸いたくなれば外に出て吸えば良い、くらいに考えていましたので苦にならず(家に 帰っている時間が短いので)この時間以外は遠慮無く吸っていました。それでもその頃は1日15本位に減っていました。
  この間にNHKが煙草の 害を放送しまして、その寿司屋での実験が脳裏に焼き付きました。実験は、寿司屋が出したトロが、横で煙草を吸っている人の煙に汚染される様を顕微鏡で映しだして見せると言うもので、煙に汚染されたトロは煙の粒子で見るも無残に汚くよごれていました。それからは、煙草を吸っている人の横では食事をするのがい やになりました。

  最終章は、ある会社の社長から、我が社を手伝ってくれと言われて、その相談を喫茶店でしている間に、私が予定しているほぼ2日分の煙草を吸ってしまいました。それで、昼からのその日の分と次の日を禁煙にしました。1日半我慢した時点で「これは、ひょっとして」と考え、胸のポ ケットには煙草7本とライターを持ったまま、1週間我慢しました。禁煙成功です。これは行けるぞと思ったので、残った煙草はもったいないので吸いました。 ハイ
  あとはライターだけ胸のポケットに入れ、どうしても欲しくなったら友人のを貰うことにしました。(結局貰う事はなかったのですが・・・・・・)
  私の場合は、何という事もない切っ掛けでやめることになりましたが、意志の弱い私は、会う人会う人に「煙草をやめる」と言いふらしました。他人の目で監視して貰うことで自制する方法を取ったのです。あとは、喫茶店とか、宴会を煙草なしに、どう過ごすか、が、課題でありました。こういう場面では煙草がないと 手持ち無沙汰になってしまう。
  しかし、それも慣れて、煙草をやめて、もう18年位(注:1993年の時点)になる。今でも鞄のなか、車のなかには100円ライターを常備しているが、これは救急時の殺菌用として、お墓でお線香に火を付けるために。ハイ 
  NHKの放送では、煙草をやめても肺の中はタールで真っ黒け、それがきれいになるのには20年掛かるそうな。世の男性が煙草をやめようとしているのに、女性たちの喫煙が逆に増え、青年壮年、中年の女性の喫煙を見ていると、ついその人の少女時代を想像し、今では澄ましているけれど、どうだったのか、と思ってしまう。擦れ違う車の若い女性がくわえ煙草で運転する様を見て、時代が変わった、とばかりは言ってられない気がするのは私ばかりなのでしょうか。
煙草は動くアクセサリー 今日も元気だ煙草がうまい (煙草会社のコマーシャル)

  (この話は1993年に起稿しJA3YDO-RBBSに掲載したものです。今回の再掲に際し年数など現在との差を注記で挿入、修正しましたのでお断りしておきます。)


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