たかきの独りごとパートⅡ

近況報告(感謝・感動・感心をテーマとし、今年度は家庭菜園が中心予定です。尚、不定期更新とさせていただきます。)

◎シクラメン

2009-12-19 09:22:40 | 日記
☆富士山ライブカメラは、三ツ峠山山頂から(今朝8:16)

★今朝の当地方も冷え込んでいる。気温は、2度Cで時折雪が降っているが地面には雪はない。昨日よりも、やや気温は高い様だが体感温度としては昨日よりは寒く感じる。水道の水もこの処の寒さで、すっかり冷たくなってきた。各地から積雪情報が流れているが、自宅付近は雪がないので助かる。しかし山間部は雪で積雪と凍結で大変だろう。昨日もR191経由の高速バスは、雪のため運休していた。ニュスでは、山形県鶴岡市の櫛引で積雪が1メートルに達し、12月としては観測史上最深記録を更新。和歌山、徳島、高松、高知、大分、熊本などで初雪、神戸、鳥取では初氷を観測したという。早く、例年並みの気温になって欲しいと願っている。
この時期は、お店の店頭でシクラメンが目立っている。花の少ない季節のシクラメンは重宝する。この時期買ってから、管理が良ければ3~4月頃まで花が楽しめる。今日の誕生日の花その「シクラメン」について・・・

☆鉢植えのシクラメン。日本ではシクラメンは最も生産されている鉢植え植物との事。

・シクラメンはサクラソウ科シクラメン属に属する多年草。学名 Cyclamen persicum Mill. 地中海地方原産で、花期は秋から春。冬の花として有名。和名は「豚の饅頭(ブタノマンジュウ)」と「篝火草(カガリビバナ)」の二種類がある。前者の『豚の饅頭』は、ある植物学者がシクラメンの英名(雌豚のパン sow bread)を日本語に翻訳した名である。後者の『篝火花』のはシクラメンを見たある日本の貴婦人(九条武子だといわれている)が「これはかがり火の様な花ですね」と言ったのを聞いた牧野富太郎が名づけた。前者は球根を、後者は花を見て名づけている。尚、現代ではシクラメンに対しては滅多に和名を用いる事が無い。
また、シクラメン属の総称としてシクラメンということもある。

・シクラメンの生態
シクラメンは双子葉植物として分類されているが、実際に土から芽を出す時は一枚しか出てこない。また、子葉から数えて7、8枚目の葉が出た頃から花芽の形成が始まる。また、葉芽と花芽は一対一で発生して行く。花を放って置くとすぐ結実するが、結実させたままにすると株が弱り、最悪枯れてしまうので、採種が目的でも数輪残すだけ、目的でなければ全て取り除くのが好ましい。球根は茎が肥大したもので、乾燥に弱く、分球しない。芽は球根の上部にかたまってつく。

・シクラメンの歴史
シクラメンは元々地中海沿岸、トルコからイスラエルにかけて原種が自生している。名前は花茎がはじめ丸まった状態で発生することから「サイクル(Cycle)」から命名された。 古来は花ではなく、塊茎の澱粉を注目され、サポニン配糖体を含む有毒にもかかわらず「アルプスのスミレ」などの美称があり、食用とされていた。大航海時代以後ジャガイモがもたらされると、シクラメンを食用にする習慣はなくなった。

シクラメンの花に着目して品種改良が行われたのはドイツである。シクラメンの原種の中でもシクラメン・ペルシカムに注目して、品種改良が進められた。

花色もピンクほか白、赤、黄などバラエティに富んだものができた。

シクラメンに関する伝説で、草花好きだったソロモン王が王冠に何か花のデザインを取り入れようと思い様々な花と交渉するが断られ、唯一承諾してくれたシクラメンに感謝すると、シクラメンはそれまで上を向いていたのを、恥ずかしさと嬉しさのあまりにうつむいてしまった、と言うものがある。

・日本でのシクラメン
鉢植えのシクラメン。日本ではシクラメンは最も生産されている鉢植え植物である。日本には明治時代に伝わった。日本での本格的な栽培は、岐阜県恵那市の故・伊藤孝重氏の手により始まった。シクラメンは高温多湿の日本の気候に合わず、様々な栽培方法が模索された。

戦後、急速に普及し、日本での品種改良も進められ、花色も黄色や二色、フリンジ咲き、八重咲きなどが登場。日本における鉢植え植物では生産量はトップクラスで、冬の鉢植えの代表格として定着している[要出典]。

「死」「苦」の語呂合わせから病院への見舞いにこの花を持ってゆくのはタブーとされている。

◆過去の出来事・トピックス
・尋常小学校を6年とする(1906)
・公衆浴場が大人19円、小人8円に値上げ(1961)
・10カ国蔵相会議において1ドル=308 円に変わる(1971)
・イギリスと中国、香港返還合意文書に調印(1984)
・エイズ患者4人を厚生省が認定。日本の患者25人(1986)

・「これにて一件落着」の名奉行・大岡忠相没(1751)
“大岡裁き”で知られる数々の名裁判は、ほとんどが作り話。このモデルとなった大岡越前守忠相は、約20年間町奉行を務めるが、その間に起きたわずか3件の事件のうち1件を裁いただけとか。
 しかし、それ以上に江戸市民の生活を安定させるための数々の業績を残した。元文の貨幣改鋳、問屋―仲買―小売という流通組織の確立、町火消“いろは四十七組”の結成、避難用地としての空き地作りと管理、小石川養生所の設立など、史上まれにみる有能な実務官僚と評される。多くの“一件落着話”が作られたのは、当時の冷酷な裁判や過酷な刑罰に対し、庶民が正義の裁きを求めたためといわれる。
 1751年(宝暦元)12月19日、名奉行大岡忠相逝去。75歳。

◆記念日・年中行事・お祭り

◆本日の誕生日
・反町隆史(タレント・1973)

☆今日の「誕生日の花と花言葉」
・シクラメン(サクラソウ科)
・内気なはにかみ 理解

☆「きょうの一句」
・シクラメンうたふごとくに並びをり  西村和子

~心に響く366の寸言~

【多岐亡羊】

 多岐亡羊(たきぼうよう)ということがある。
 これは羊を飼っておった人が羊を逃がした。
 そこで慌てて追いかけた。
 隣り近所の人も一緒になって追っかけてくれたが、
 あんまり岐路(えだみち)が多い。
 いわゆる多岐である。
 
 岐路が多くって、
 あっちへ行ったこっちへ行ったと言っているうちに、
 どっかに行っちまってわからなくなった。
 
 人間もそういうもので、あんまり仕事が多くなると、
 肝腎(かんじん)なものがどこに行ってしまったか
 わからないようになる。
 
 人間というものの本質、人間の使命、人間の幸福、
 そういったものがわからなくなってしまうのである。


 『安岡正篤 一日一言』より(致知出版社刊)

☆12月19日 松下幸之助[一日一話]
<寿命を知る>
人間に寿命があるように、われわれの仕事にも、それがいつのことかわからないにしても、やはり一つの寿命があると言えるのではないかと思う。しかし、だからといって、努力してもつまらない、と放棄してしまうようでは、人間言うところの天寿を全うせしめることはできない。これはいわば人間はやがて死ぬのだからと、不摂生、不養生の限りを尽すのと同じであろう。
それよりもむしろ、いっさいのものには寿命がある、と知った上で、寿命に達するその瞬間までは、お互いがそこに全精神を打ち込んでゆく。そういう姿から、大きな安心感というか、おおらかな人生が開けるのではないかと思う。

☆「たかきの独りごとパートⅡ」はブログの開設から 147 日
・12月18日のアクセス数 閲覧数:222 訪問者数:116

タイトル:たかきの独りごとパートⅡ
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