たかきの独りごとパートⅡ

近況報告(感謝・感動・感心をテーマとし、今年度は家庭菜園が中心予定です。尚、不定期更新とさせていただきます。)

◎東北の旅(6日目:盛岡のホテル~猊鼻渓~毛越寺~中尊寺~厳美渓 ~サンホテル衣川荘)

2009-11-04 06:33:34 | 旅行
☆富士山ライブカメラは、河口湖大石から(今朝5:35)

☆当地方は、まだ外は暗く大きな月と沢山の星がでている。昨日見たいに風こそないが気温は3度Cまで冷え込んでいる。天気は、晴れているので日中は気温が上がることだろう。今日は、この後広島に行って来ようと思っている。次男宅~長女宅~叔母宅を訪問し二泊する予定でいる。従ってその間は、ブログ更新はお休みします。では10/27(火)の旅日記を!
☆東北の旅6日目・10/26(月)の朝は盛岡駅前ホテルを8:40頃出発。やや小雨が降っていて、気温は11度Cで肌寒かった。朝のうちは、雨だったが次第に天気も回復しお昼前からは陽が差してきた。お昼頃一関市にある猊鼻渓(日本百景・名勝)(ゲイビキョウ)に到着する。丁度お昼時で沢山の観光バスが入っていた。観光名所だけ有って、ホテルやお土産店も沢山あった。渓流下りの船も90分コースも出ていた。しかし前日の雨のせいか、川も濁っていたしお腹も空いていたので少し歩いて次に行く。松尾芭蕉の「奥の細道」に出てくる平泉に13時過ぎに入る。この付近も、どこも紅葉は見頃で沢山の観光客で賑わっていた。平泉では、毛越寺・中尊寺・厳美渓 (ゲンビキョウ)等を観光した。その後は、平泉市が一望出来る高台にある国民宿舎サンホテル衣川荘に宿泊する。この国民宿舎は、十和田湖温泉に有ったのと違い規模も大きく設備も整っていた。しかし、その分だけは宿泊料金にちゃんと反映されていた。しかし宿泊客は、十和田湖温泉の方が圧倒的に多く平泉の方は20人前後だった。
☆10・27(火)6日目の行程は
盛岡駅前のスパーホテルを8:40頃出発⇒道の駅・石鳥谷・南部杜氏の里⇒岩手県一関市の猊鼻渓(ゲイビキョウ)・日本百景・名勝・⇒毛越寺⇒中尊寺⇒厳美渓 ⇒国民宿舎:サンホテル衣川荘泊(盛岡~平泉間の一日延べ走行キロは146Km)
☆道の駅:石鳥谷にて休憩する。

☆猊鼻渓(日本百景・名勝)には、お昼頃到着する。
・砂鉄川が石灰岩を浸食してできた約2kmの渓谷。およそ100mの断崖が両岸にそびえている。流れは静かで、手漕ぎ舟での舟下りでは船頭が「げいび追分」を唄う。また、この断崖に紫の花を咲かせる藤の花が春いちばんの見どころで、特に清流沿いにそびえる藤岩には花期は鮮やかな紫色の房が幾重にも垂れ下がる。また最奥の猊鼻岩へ向かう途中にも藤棚が設けられており、新緑によく映えるという。

☆猊鼻渓を流れる川は、前日の雨のせいで少し濁っていた。断崖に紅葉が良く似合っていた。

☆猊鼻渓から平泉市に向かう道路は、山の中を走り田んぼやりんご園等があった。

☆目指す毛越寺には、13時頃に到着する。

☆毛越寺正面入り口
・沿革
850年(嘉祥3年)、中尊寺と同年に円仁が創建。その後大火で焼失して荒廃したが奥州藤原氏第2代藤原基衡夫妻、および子の第3代藤原秀衡が壮大な伽藍を建立した。中世の歴史書『吾妻鏡』によれば、「堂塔四十余宇禅房五百余宇」があり、円隆寺と号せられる金堂・講堂・常行堂・二階惣門・鐘楼・経蔵があり、嘉祥寺その他の堂宇もあって、当時は中尊寺をしのぐ規模だったという。
以後、鎌倉幕府にも保護されたが、1226年(嘉禄2年)の火災、さらには1573年(天正元年)に兵火にあい、長年の間、土壇と礎石を残すだけとなっていた。現在の本堂は1989年(平成元年)に平安様式に則って再建されたものである。
毛越寺境内遺跡は、1954年(昭和29年)より5か年にわたって全面的に発掘調査がなされ、その規模や構造などの全容がほぼ解明されている。その調査結果は、『吾妻鏡』などの文献資料ともよく合致する。
それによれば、遺跡は、現在の毛越寺の境内にあり、旧来の姿をとどめており、土塁・南大門跡苑池・金堂跡その他の堂跡の保存状態はきわめて良好である。とくに金堂跡は桁行7間、梁間6間に復原される礎石がほぼ完全にほぼ遺存しており、土壇の四周には基壇地覆石がめぐらされ、雨落溝の構造ものこっている。左右には翼廊跡があり、前方に折れてその両端にそれぞれ楼の跡も残っている。その他の堂宇の礎石もよく残り、その浄土庭園は、平安時代末期の遺構として、毛越寺のシンボルとなっており、苑池も橋脚をのこして中島・庭石については旧態をよく示して、平安時代の伽藍形式を示すものとして学術上の価値が高い。こんにち伽藍復原図として知られる図像は、1954年以来の発掘調査によって検出された考古資料をもとに描かれたものである。
なお、表門は一関城の大手門を移築したものである。

☆京都のお寺巡りも良いが、ここ毛越寺の庭園も素晴らしい!
この毛越寺の庭園は、日本最古の庭園書「作庭記」に基づいて造られた庭園と言う。

☆庭園内の紅葉も、木によってそれぞれ色が異なっている。

☆中尊寺に到着
中尊寺(ちゅうそんじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院。奥州観音札所番外。山号は関山(かんざん)、本尊は阿弥陀如来。開山は寺伝では円仁(慈覚大師)とされるが、実質的な開祖は藤原清衡である。
奥州藤原氏三代ゆかりの寺として著名であり、平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂(こんじきどう)をはじめ、多くの文化財を有する。1979年(昭和54年)5月22日、「中尊寺境内」として国の特別史跡に指定された。
2001年に世界遺産登録の前提となる暫定リストに「平泉-浄土思想を基調とする文化的景観」の一部として記載された。2008年の第32回世界遺産委員会の審議では、登録延期が決定した。

☆参道も沢山の観光客の姿だった。

☆中尊寺内の弁慶堂
・武蔵坊弁慶生誕伝説
武蔵坊弁慶生誕伝説(むさしぼうべんけい せいたんでんせつ)は、出雲国(島根県)に伝わる武蔵坊弁慶の生誕に関する伝説の1つである。
そのせいか今年の6月ごろ、島根県出雲市にある天台宗の寺院「鰐淵寺(がくえんじ)」を訪れた時、弁慶が大山寺から一夜で釣鐘を運んだとの伝説を知る。その銅鐘は国の重要文化財に指定されている。
弁慶に関する伝承 [編集]
弁慶は仁平元年(1151年)松江に生まれ、18歳から3年間鰐淵寺にて修行したとされる。その後、姫路書写山、比叡山と移り、更に源義経の家来となり義経に従い国内を転戦したが、壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼした後再び鰐淵寺に身を寄せ、この際多くの伝説・遺品を残した。

☆菊花展が開催されていて、季節を感じる。

☆こちらの菊も上手く出来ている。

☆本日最後の観光・厳美渓
栗駒山を源に流れる磐井川が巨岩を侵食し、おう穴・滝・深淵と表情を変え2kmにわたり渓谷美を見せる。名物のだんごをほおばりながら遊歩道を散策すると、つり橋から上流の荒々しい流れと下流のゆったりとした淵の対照的な景色も見もの。春は満開の桜と雪解け水が流れる渓谷美を眺め、夏には涼しげな渓流のせせらぎを開き、秋には色づく山々の紅葉、冬には水墨画を思わせる景色が広がり、厳美渓は四季折々、それぞれの風情が楽しめるとの事。

☆比較的町の中に位置し、中尊寺からも近くツアーのコースにも入っている様だ。
それにしても、ここの渓谷美は素晴しい!水量もかなりあり、夏も清涼感たっぷりで良いのでは?

☆厳美渓近くのお土産店では、南部鉄器が売られていた。我が家でも、すき焼きなべや鉄ビンを愛用している。
・盛岡の南部鉄器
盛岡の鋳物は、始まりが慶長年間(1596年-1615年)の盛岡藩主南部氏が築城の頃といわれている[要出典]。それからは、歴代藩主庇護の下、育まれてきた。藩の鋳物の受注はこの4家がほぼ担っていたため、盛岡の南部鉄器の歴史は、有坂家、鈴木家、藤田家、釜師小泉家の歴史とも言える。

☆国民宿舎・サンホテル衣川荘は、平泉市内が一望できる高台に位置していた。

☆国民宿舎・サンホテル衣川荘の前方には、城がありその下が駐車場になっていた。

☆国民宿舎・サンホテル衣川荘・3階の部屋より平泉市内を臨む(16:30頃)
●昔から要害の地として柵が置かれた衣川。平泉文化以前の歴史を秘められた土地である。中尊寺とその周辺には、藤原文化の真髄が集まった史跡の数々、毛越寺、渓谷美を誇る厳美渓、舟下りを楽しめる北上川、平泉関山、歴史ふれあい館。中尊寺(車で3分)、毛越寺(車で7分)。(サンホテル衣川荘のHPより)

☆こちらの地方も夜が明けて良い天気になりそうである。今朝の忍野八海からのライブカメラ(6:17)も富士山が素晴らしい!気持ち良く広島に向かおう・・・










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