多摩爺の「時のつれづれ(皐月の8)」
日本一の豪速球投手
今朝、ニュースを見ていたら大変残念な報道があった。
テレビで放映されるので、無観客でも良いからと、
楽しみにしていた夏の甲子園が、どうやら中止になりそうなのだ。
既に大学野球も全国大会が中止され、高校総体も中止されてることから、
なんとなくそうなるだろうと思っていたが、
改めてそうなると知ると、私も半世紀前は高校球児だっただけに残念でならない。
そんなことから、スポーツ紙のホームページを見ていたら、ちょっと気になるコラムに目が留まった。
その記事で取り上げられていたのは、
かつて阪急ブレーブスで活躍した剛腕「山口高志投手」のことだった。
昨年は、令和の怪物と呼ばれた163キロ右腕、佐々木朗希投手で俄然盛り上がったが、
彼の身長は190センチ、体重は85キロあるのに対し、
私が気になった山口投手は169センチ・70キロである。
メジャーリーグで活躍している大谷選手は193センチ、100キロ弱というから、
体格に恵まれないなか、どれだけ凄い投手だったのかが見て取れる。
高校野球の聖地であり、そしてプロ野球・阪神タイガースの本拠地でもある、
阪神甲子園球場から北に約3キロ、阪急電車の西宮北口駅に、
かつて、阪急ブレーブスという球団が本拠地(西宮球場)を構えていた。
西本幸雄、上田利治といった名将が監督として指揮を執り、
世界の盗塁王・福本豊選手や、後にメジャーリーガーとなったイチロー選手などを輩出した名門球団
その阪急ブレーブス当時の黄金期を支えた投手の一人が・・・ 山口高志投手だ。
当時としては珍しかったパーマヘアーに髭を蓄えた森本選手、
バッターボックスで何度も肩に顎を乗せる仕草に特徴があった長池選手、
さらには超パワーヒッターの怪人・ブーマー選手、
史上最高のサブマリンともいわれた山田投手などが在籍していた
とってもパワフルで、とっても個性的で、とっても強い球団だったと記憶している。
その後・・・ 親会社が阪急電鉄からオリックスに代わったこともあって、
球団名は、オリックスブレーブスからオリックスブルーウェーブとなり、
大阪近鉄バファローズを吸収合併して、現在のオリックスバファローズに至っている。
阪神淡路大震災があった1995年、仰木彬監督とともに「がんばろうKOBE」を合言葉に、
リーグ優勝した伝説的な球団だ。
身長169センチといえば・・・ 私と数センチしか変わらない。
2017年のワールドシリーズを制し、アメリカンリーグのMVPに選出された
ヒューストン・アストロズのホセ・アルトゥーベ選手(168センチ)とほぼ同じ身長になる。
BS放送のメジャーリーグ中継で見かける名選手だけに、
他のメジャー選手との身長差がどんなものかは・・・ 言わずもがなだろう。
スピードガンがなかった時代ゆえに、実際のところ何キロ出ていたかは分からない。
現在の日本人最速は、大谷翔平投手の165キロだが、おそらく、それに近い球速は出ていたと思う。
ここで注目したいのは、193センチの大谷投手との身長差24センチである。
速いボールを投げることで有名な投手の身長は、いったいどれぐらいなんだろうか。
現役選手ではダルビッシュ有投手が196センチ、
藤浪晋太郎投手が197センチ、佐藤由規投手が179センチ、
過去の選手では金田正一投手が184センチ、江夏豊投手が179センチ、江川卓投手が183センチ
このテータを踏まえれば、山口高志投手の169センチが、どれだけ凄いかがよく分かる。
投球フォームは・・・ 腕を真上から真下に弧を描くように投げおろすアーム投げ、
さらには踏み出した足に被さるように上半身を折り曲げる、超ダイナミックな投球フォーム
投げ終わった後に、右手の指先がマウンドを突き刺しているという風説もあった。
山口高志投手は、神戸市立神港高校から関西大学に進んだ後、
大学野球で日本一になり、その年のドラフトの目玉でありながら指名を拒否し、
松下電器で2年間の社会人野球を経たのち、25歳でプロ入りを決断した遅咲きの投手だった。
プロ入りが遅れた要因は、間違いなく身長(背が低い)にあったといって過言ではない。
思うに・・・ 現在の野球ファンに、山口投手の記憶にないのは、
プロ野球での在籍期間が8年だったものの、実質的に活躍したのは、
最初の4年だけだったことが影響している。
プロ野球での8年、通算成績は195試合(787イニング)に登板して、
50勝44敗(奪三振は600個)
確かに奪三振は多いが・・・ それぐらいの成績の投手は他にもたくさんいると思う。
しかし、山口高志投手のピッチングを見た人は、
成績とは別の記憶が鮮烈に残っているんじゃなかろうか。
私にとっての鮮烈は、昭和50年(1975年)の日本シリーズだ。
パシフィックリーグを優勝した阪急ブレーブスと対戦するのは、
球団創設以来、初めてセントラルリーグを制した私の愛する赤ヘル軍団・広島東洋カープ
カープは勇んで日本一に挑んだものの、
新人の山口投手が投じる豪速球に手も足も出ず、一つも勝てないまま完敗
いわゆる・・・ 木端微塵(2分4敗)にやられてしまった。
豪速球の「豪」とは・・・ いったい、どういう意味なんだろうか。
辞書を調べれば、「甚だしいこと」、さらには「優れていること」とある。
あくまでも、私の視点と前置きさせてもらうが、
優れたストレートを投げる投手は、私が見てきた過去の投手を含め日本球界には数多いた。
しかし、甚だしいストレートを投げる投手は、山口投手が唯一無二じゃなかろうか。
カープファンの私が、言葉も出ないぐらいコテンパンにやられたという
他に言葉が見つからないぐらいの敗北感を感じたのは、
後にも先にも昭和50年の日本シリーズだけで、
甚だしく強いストレートを見たのは・・・ 山口高志投手だけである。
その衝撃たるや、既に半世紀の時を経ようとしているが、
いまでも・・・ 日本一速いボール、強いボール投手を投げる投手は誰かと問われたら、
躊躇することなく、山口高志投手だと答えるだろう。
鎮勝也(しずめ かつや)さんというスポーツライターが、
「伝説の剛速球投手 君は山口高志を見たか」という興味深い本を書いている。
勿論、私の愛蔵書の一冊で、鎮さんは剛速球という「剛」と言う文字を使っているが、
私はあえて・・・ 「剛」じゃなく、「豪」という文字に拘りを持ちたい。
豪速球投手というものは・・・ 時代を超えて野球ファンを熱く魅了する
スピードガンがなかった時代、ダルビッシュ投手や藤浪投手、大谷投手よりも20センチ以上も低い
身長169センチの投手がとてつもない豪速球を投げていた。
最多勝利や最多セーブなどといった、記録に残る賞を受賞したわけではない。
球場やテレビ中継を通して、そのボールの威力やスピードを見た者だけが知っている、
記憶に残る投手だった。
そういった意味で捉えたら、当時のパリーグはテレビ中継が殆どなく、
多くのプロ野球ファンの記憶に薄いことは、極めて残念だった言わざる得ない。
また、忘れてはならない事の一つとして、阪神タイガースの投手コーチに就任した際、
結果が出ずに、ファームでくすぶっていた藤川球児投手に目を付け、
豪速球の投げ方を伝授し、火の玉ストッパーとしてメジャーに挑戦できる投手に育てた。
藤川投手の陰に山口コーチが居たことを・・・ 忘れてはならない。
山口高志には、速い球(強い球)を投げるための持論があった。
私が若かった頃、投手の軸足の膝にはマウンドの土がついて汚れているのが普通だった。
それがカッコよかったし、そんなピッチングフォームを真似していたと記憶している。
しかし、それでは体が前方に向いて沈んでしまい、
マウンドの傾斜(角度)というアドバンテージを活かすことが出来ない。
よって・・・ 山口高志は投げる際に軸足を折らず(曲げず)、
マウンドの傾斜を利用して、上から下に腕を振りぬくことを持論にする。
もし、鎮勝也さん風に「君は山口高志を見たか?」と問われたら、
逝きし昭和のプロ野球界に、山口高志と言う伝説的な豪速球投手がいたことを、
「私は知っている。」と自慢するだろう。
コラムによれば・・・ 今日(5月15日)は、山口高志さんの誕生日で、
古希(70歳)を迎えられたという。
健康を祈念するとともに、願わくは赤い帽子を被って、
マツダスタジアムに立って欲しいと思っている。
まだまだ自粛生活が続くなか、顰蹙を買うかもしれないが、
スポーツ(プロ野球)の開幕が待ち遠しい。
話題が増えれば、ストレス解消にもなるし、暇つぶしにもなるし、癒しにもなる。
そのためにも、いましばらく・・・ ガンバローじゃないかと思う。
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