多摩爺の「旅のつれづれ(その22)」
あの冬から50年 関門橋(山口県下関市)
「巌流焼き(下関名物の白餡どらやき)が食べたいから、壇ノ浦サービスエリアに寄ってくれる。」
下関インターから高速道路に入った直後に・・・ 女房がそう言った。
壇ノ浦サービスエリア、そして・・・ 関門橋
記憶が確かなら、この施設が完成し、本州と九州がトンネルではなく橋で繋がったのは、
遡ること半世紀、私が19歳の冬(1973年11月)だったはずだ。
いま思い起こしても、笑ってしまうような出来事だったが、
もう50年も昔に、笑い話では済まされないような、
事故のようで事故でもない、あり得ないような出来事に関わったので、
ちょっと長くなるが、忘れ得ぬ青春の一コマとして、関門橋に関わる思い出話を記しておきたい。
高校を卒業して、社会人になって約半年、私は山口県宇部市にあった会社の寮に住んでいた。
日付は定かではないが・・・ 11月の中旬、たぶん19時ぐらいだったと思う。
日勤を終えて、同室のNと晩メシを食ってると、同期のMがニタニタしながら食堂に入ってきた。
「車買ったから関門橋まで走りに行かないか?」と言い、
私たち二人を駐車場まで案内すると、そこには、草臥れたホンダのN360が止めてあった。
「どうしたんだよ。」と聞くと、Mは「3,000円で買った。」と言うではないか。
中国自動車道が、つい先日開通したことは・・・ ニュースで知っていた。
Mは、宇部市内から一番近い小月ICから中国自動車道に入って、壇ノ浦SAでお茶して、
関門橋を渡ってから、関門トンネルで戻ってこようというのである。
私と、同期のNは、まだ免許を持ってなかったが、Mは先月取ったばかりで、
車が欲しくて堪らなかったところに、友人の兄からN360でよかったら、
3,000円で良いよと言われたもんだから即決したらしい。
名義はどうしたのかとか、保険はどうしたのか、
あとから考えれば、いい加減なことばかりで、たぶん軽いノリで車を手に入れたんだと思うが、
なにせ未成年であり、そこまで知恵が回るような歳には至っていない。
Mが言うには、バンパーや、フェンダーミラーの付け根にはサビがでていたが、
所詮3,000円であり、新車を買うまでの練習台だと思えば・・・ 損はないと言うのである。
Nは「彼女と行けば良いじゃないか?」というと、
Mは「いたら、おまえらを誘うわけないじゃん。」と即答、
これから先・・・ とんでもない不幸が待ち受けているというのに、
「しょうがない。付き合ってやるか。」ってことになり・・・ 同期3人のドライブが始まった。
なにせ、出来たてホヤホヤの・・・ 高速道路(中国自動車道)であり、関門橋である。
残念なのは、汗臭い男の3人連れということぐらいだが、
ルンルン気分で寮を出て、小一時間走って小月ICに入ったのは、たぶん21時ごろだったと思う。
事故というか、不幸な出来事というものは不思議なもので、なんの前触れもなく突然やってくる。
突然、ホントに突然・・・ 車の中に煙が入ってきたのである。
「だれか、タバコ吸ってる?」と、助手席のNが声を出した。
「いいやぁ、吸ってないけど・・・ 。」と、私とドライバーのMが返した。
しかし、煙は治まるどころか、だんだん濃くなり車内に満ち始めてきた。
「悪いけど、窓開けて。」とMが言った。
「勘弁してよ。冬だぞ・・・ 。」とNが返した。
そんな短い会話のやり取りが、1分ぐらいあっただろうが、
突然、3,000円のN360は、走ることを放棄してしまった。
しかも・・・ 高速道路の中で、
いやぁぁぁ、慌てたのなんのって、まさに「わっ、わっ、わっ」で、初めて経験するパニックだった。
幸いだったのは、エンジンが火を噴いたわけではなかったことと、
開通して間もなかったことから、交通量が極めて少なかったことに加え、
止まった場所が、小月ICと下関ICの中間にある、王司PAまで1キロなかったことだろう。
車の外に出て、直ぐさま車を左端の路肩に寄せると、JAFを呼ぼうってことになったのだが、
ケータイ電話のない時代で連絡ができず、結局近くのPAまで押していき、
駐車場に車を止めてから作戦会議である。
なんの作戦会議かというと、
レッカー車を呼んで、移動してもらう場所が、直ぐに思い浮かばないことと、
先立つもの(お金)が足りなかったことで、まずはそれをどうするか決める必要があったのである。
結論は、移動先が直ぐに見つからないことから、まずそれを決めるため今夜は宇部に戻り、
明日の午後から休みを取って、
先輩を拝み倒して、王司PAまで連れてきてもらいJAFに連絡するだった。
それにつけても問題なのは・・・ これから、どうやって宇部に帰るかだが、
同期の二人は下関出身ではないため、親戚も知人もいない。
結局、下関出身の私が、PAから母に電話して頼み、
PA近くの道路まで迎えに来てもらい、近くの国鉄の駅まで送ってもらうことになった。
これだけでもドタバタで、ホントになんてこったいだが、
ハプニングは翌日にも続きがあるんだから・・・ 笑おうにも笑えなくなってくる。
そして・・・ 翌日、この日はとっても寒い日だった。
F先輩の配慮で王司PAまで着くと、早速JAFに電話するとレッカー車がやって来た。
ここでとんでもないハプニングが起こる。
なんとMが、ズボンを履き替えたとのわけの分らぬ理由で、N360のキーを忘れてしまったのだ。
さすがに取りに戻る時間はないが・・・ ここでJAFの方から、
「この車は、ハンドルロックがかからないので、三角窓を壊してドアロックを解除しましょう。」と
驚くべき提案が出された。
覚悟を決めて三角窓のガラスを割り、運転席に着いたMは、木枯らしが室内に吹き込むなか、
ガッチガチに強ばった顔で、レッカー車に牽引されたN360のハンドルを握りしめ、
下関ICから近い自動車整備工場までなんとか辿りつき・・・ 本件は一件落着となった。
私はレッカー車に乗せてもらい、Nは暖房の効いた先輩の車で追走したが、
3,000円の車を買ったばかりに、Mはレッカー代金と、廃車費用まで工面することとなり、
翌月支給される冬のボーナスを、すでに使い込んでしまったのであった。
安物買いの銭失いとは・・・ まさにこのことだろう。
後日談になるが・・・ 木枯らしが余程応えたのか、Mは翌日から数日寝込むことになり、
仕事でも穴を空けたことから、上司から大目玉を食らったらしく、
当然と言えば当然なんだけど、しばらくは可哀想なぐらい元気がなかった。
因みに、JAFの方曰く、中国自動車道が開通して、小月ICから下関ICの下り区間で、
私たちが起こした事案が・・・ レッカー車出動の第4号ということらしい。
けっして、褒められるようなことではないが・・・ あの冬から50年が経った。
レッカー車のお世話にはなったものの、
交通事故じゃなかったことだけは・・・ 結果オーライといっても良いだろう。
あのとき立ち寄ることが出来なかった壇ノ浦SAには、なんども来ているが、
あのとき渡ることが出来なかった関門橋を見上げる度に、
思い出が詰まった引き出しが、いつの間にかと開いて、青春の一コマが蘇るんだから、
トホホというか、面白すぎて・・・ つい笑ってしまう。
とっても恥ずかしい思いでだが、
このことはきっと・・・ 生涯忘れることができないだろう。
50年前、辿りつくことができなかった壇ノ浦SA(山口県下関市)
関門橋の向こう岸は、九州(福岡県北九州市門司区)だから・・・ その距離はホントに近い。
支払いは私たちじゃなく、同期のM君なので、私たちの懐は痛みませんでしたが、
車は正規ルートで買うものという、良い勉強をさせてもらいました。
因みに原因は、エンジンオイルが足りなかったということだったので、
オイル交換だけは、6ヶ月点検の度にやるよう心がけています。
>巌流焼き(下関名物の白餡どらやき)が食べたいから、壇ノ浦サービスエリアに寄ってくれる。」
下関インターから高速道路に入った直後に・・・ 女房がそう言った。
から始まった更新に今朝は笑顔になってしまいました。
余りに失礼なコメントと思いやめてしまいましたが。
再度 訪問 多摩爺の青春をクスとしながら・・・
ごめんなさい(__)
おやすみなさい。
昨夜は早く床に就いていて、コメントを頂戴していたのに気がつきませんでした。
私の青春時代の失態、笑っていただけましたでしようか?
いまから振り返ってみても、ウソのようなホントの話って、あるんだなぁと笑ってしまいます。
王司PAには、あれ以来行ってませんが、思い入れが強かった壇ノ浦SAには、帰郷する度に寄っています。