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それでいいのか、フジオプロ

2023-07-18 21:07:00 | 赤塚不二夫
本件は、実際に起こっていること自体は些細なことかもしれません。

しかし、「おそ松くん」という作品や赤塚不二夫先生本人の尊厳にも関わってくる重大な事案であると考えています。


結論から述べると、
現在、赤塚不二夫公認サイトでは

故人である赤塚先生の意向に反する一方的な設定改変を行った上で、かつその内容を「赤塚先生お墨付き」ということにして掲載している

可能性が非常に高いです。



本文をお読みいただく前に。

こちらの記事では、以前の記事と同様の問題を取り扱っています。

内容自体も大まかには共通していますが、記事としてはこちらの方がより「決定版」となるようまとめてあります。

最初に皆様にお願いがあります。

今回の記事や、前回の記事を見て、この件に関して「良くない」と思ってくださった方は、赤塚不二夫公認サイトの問い合わせ用メールアドレス宛に、意見を送っていただきたいのです。(※利用規約〈このサイトについて〉のページに記載あり)

伝われば、声が大きくなれば、変わることもあるかもしれません。
私は既に、メールを送っています。


私は解決するまで、この問題について発信を続けます。

前置きここまで。




「赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ‼︎」(以下、公認サイト)は、故・赤塚不二夫先生が立ち上げた事務所・フジオプロが運営する、赤塚先生や赤塚漫画のことを取り扱うオフィシャルサイトだ。
そこにはコンテンツとして、作品に登場するキャラクターたちの紹介もある。


2023年に入ってからのことだ。
その中で、「おそ松くん」の六つ子6人分の紹介文が、それ以前まであったものから、大幅に書き換えられていたのだ。


具体的にどう変わったかは、アーカイブから比較してもらうのが手っ取り早いが、以前までは6人分にそれぞれちゃんとした説明があったのに、現在はやたらと「無個性」「違いがない」「順番不明」を強調した内容になっていることがおわかりいただけると思う。

これが、大きな問題を孕んでいるのである。
それも、単なる賛否では片付けられない、倫理的な問題までもが含まれているのだ。

私は、このままではいけないと強く考えている。
この件の問題点について、一つずつ説明していくので、長文になるがお読みいただきたい。


①赤塚先生の名前の不適切な利用

②六つ子のキャラクターに対するぞんざいな扱い

③六つ子各人はちゃんと"違う"

④「おそ松さん」に支配されゆく「おそ松くん」




①赤塚先生の名前の不適切な"利用"


順を追って説明した方がわかりやすい部分もあるが、問題の大きさを伝わりやすくするため、最も大きく問題視しているものから説明する。
後述する問題点も、最終的にはこのポイントに帰結する。

書き換えられた文章のうち、「おそ松」の紹介文に、赤塚先生の発言を引用したかのような部分がある。

"『もともと「六つ子」という設定が面白いだけでそれぞれの性格なんか知らないよー』と赤塚センセイ。"
というものだ。

これより後に説明する問題点は、(問題があることに変わりはないが)最終的には多かれ少なかれ「賛否」や「解釈違い」というポイントに行き着く部分がある。
今のフジオプロはこういう方針・解釈でいく、という表明をファン各々がどう捉えるか、ということだ。

しかし、そこに赤塚先生の名前を出されるとなると、話は大きく変わってくる。"今のフジオプロ"はそういう方針、で済ませられる話ではなくなるからだ。

大前提として、本当に赤塚先生はこんなことを言ったのか?という問題がある。これは、いつ、どこでの赤塚先生の発言なのかが、一切わからない。

後述するが、赤塚先生は作品中で六つ子のキャラクターをちゃんと書き分けていたし、六つ子の性格が設定として記された資料もあり、中には赤塚先生がはっきり「六つ子の性格は全員違う」ということを明言しているインタビュー記事もある。
私が確認できる限りでは、赤塚先生はきちんと六つ子を一人一人区別していたことが見てとれるのだ。

そんな赤塚先生が、「それぞれの性格なんか知らない」などと真逆な発言をすることは考えにくい。

よって、この発言はサイトの運営者(=現フジオプロスタッフ)によって捏造されたものである可能性が高いと言わざるを得ない。
おそらくは、実際には赤塚先生はこのようなことを言っていないのだ。

とはいえ、私も赤塚先生の発言などを全て把握しているわけではないし、実際にそういう発言があったという可能性を完全には否定できないのも事実。
時期や場合などによって発言に食い違いが生じるということも、ありえない話ではない。
しかし、どちらにしてもこの状況は褒められることではないのだ。


◆発言内容が真実だった場合
赤塚先生が本当にどこかで「六つ子の性格なんか知らない」と発言していたのだとしても、連載当時にはちゃんと設定が存在し、赤塚先生が「六つ子の性格はそれぞれに違う」と考えていたこともまた、紛れもない事実なのである。
それを尊重せずに、片方の見解に完全に偏らせて、持論の強化のため"印象操作"のように赤塚先生の名前を使うのは、やはりいいことではない。

本当にそのような発言があって、それを使うのなら、まずその発言のソースを明らかにするべきである。

その上で、赤塚先生が「六つ子の性格はそれぞれに違う」としていた事実を無視してでも、その発言を採用・使用するのに足る妥当性・正当性を示すべきなのだ。

◆発言内容が捏造だった場合
ある意味、最悪のパターン。

故人の発言を捏造することが、いいことであるはずがない。
それ以前に、意図的に堂々と嘘を書くことが良くないということなんて、小さな子供でもわかることだろう。

名目上「公認サイト」ではあるが、本質的には「公式」であり、その言葉通り信頼できる情報源として多くの人が参考にするだろう。内容が別サイト等に転載されることもあるかもしれない。その中で、「赤塚先生がそう言うんなら、そうなんだろうな」という風に、あの紹介文に納得する人も出るだろう。というか、おそらくは書き手はそれが狙いで赤塚先生の名前を出している。
しかし、発言が捏造なら前提条件が大きく間違っており、公式が積極的にデマを拡散させようとしているという構図が出来上がっていることになってしまう。

記述を正当化するために、でっち上げてでも赤塚先生の名前を錦の御旗として使っているわけで、それは非常に卑怯なことだと思う。

"今のフジオプロの方針"を強いて挙げるなら、そんな風に「故人の名前を都合のいいように利用する」ということにもなりかねない。

そして、あの発言を捏造とするなら、やはり赤塚先生の正しい見解は「六つ子の性格はそれぞれに違う」としていた方ということになる。
つまり、

事実を捏造してでも故人である赤塚先生の名前を都合のいいように利用して、
その結果として赤塚先生の本来のご見解が蔑ろにされてしまう

というのが、現在起こっているありのままの状況となるのだ。

赤塚先生のご見解と相反する見解を、あろうことか赤塚先生の名前を使って正当化させようとしているのだ。

"公認サイト"が、それでいいのだろうか。


②六つ子のキャラクターに対するぞんざいな扱い

根本的に、キャラクターへのぞんざいな扱いが残念でならない。
もっとマシな書き方はいくらでもあるだろうに。
きちんと紹介されているほかのキャラクターの文章と比較しても、異質な内容になっているのは明らかだろう。

六つ子に「六つ子であること」以外に価値を認めないような、投げやり・愛がないと思われても仕方のないような文章にしてしまうことは理解に苦しむ。
個性がない、特徴がないだなんてことは殊更に強調するようなことではないだろう。
聞いたこともないような変な"鉄則"に縛られて、アイデンティティを認められないのが六つ子なんだろうか。

うちの子って何の特徴も個性もないんです〜
とか、
うちじゃ『目立っちゃダメよ』って教えてますんで
だなんて言う親がどこにいる、というような話だ。

他のキャラにも同様の形式の紹介文を適用してみれば、よりわかりやすいかもしれない。
例えば「バカボン」だと、

これといった特徴もなく、一人では何もできないので、引き立て役としてひたすらにパパに付き添うだけ。それが宿命。

といった感じの紹介文になるだろう。
…いかがだろうか?


「性格的にも各々に違いがない」というスタンスでいくだけならまだいい。後述の設定などはともかくとして、見方次第ではそういう結論に至っても致し方ない部分はある。
しかし、それでも、例えば「6人揃ってワンパク」だとか、「ケンカもするけど、いざとなると結束は強い」だとか、六つ子の魅力や特徴はいくらでもあると思うし、いくらでも書きようはあると思うのだ。
どうしてあんな風な、徹底して魅力を感じさせないような文章にしてしまうのか。

私は赤塚作品や赤塚キャラ全体に愛着があり、勿論「おそ松くん」も大好きな作品であり、その主役たる六つ子たちも当然ながら大事なキャラクターたちだと思っている。
そんな六つ子が、公式な資料でこんな風にぞんざいな扱いを受けるようになってしまったことに、はっきり言って心を痛めている。


③六つ子各人はちゃんと"違う"

「おそ松くん」の六つ子は、本当に何の特徴も個性もなく、それぞれに違いなんてないようなキャラクターたちだったのだろうか。
これについてははっきり「ノー」と言わせていただく。

漫画を読めば、強弱はあれどそれぞれにキャラ付け・書き分けがされていることがわかるはずだ。
全員同じに見えて、実はちょっとずつ違うというのが六つ子の魅力のひとつ、というのがファンとしての見解だ。

そうした「六つ子の性格面での違い」は、ファン側が勝手に解釈しているものではなく、設定として正式に存在する。
(以下、文字数削減のため根拠として大きいもののみ掲載する。より詳細に知りたい方は、前回の記事をご覧ください。)

1964年、少年サンデー誌上で始まった『おそ松くんニュース』というコーナーでは、第1回目にてまさに「六つ子の性格は?」という読者の質問があり、それに対して「それぞれの性格なんか知らないよー」などと投げ出されることなくきちんと一人一人説明されている。

一松 いちばん、まじめ。
チョロ松 調子がよく、すばしっこい。
十四松 おとなしい。
カラ松 のんきもの。
トド松 あわてん坊。
おそ松 あばれん坊だが、人にすかれる。

これは作中描写と照らし合わせてもほぼギャップのないもので、この回答のために適当に考え出されたものではないと見ていい。
この記事は、竹書房文庫「おそ松くん」第1巻の巻末『ハッスル通信』にも再録があったし、「CRおそ松くん」での紹介文もこれを参考に書かれていた。埋もれているようなことはないはずだし、間違いなく明確な設定である。これを使っても何の問題もないのに。

そして、赤塚先生が直接六つ子の性格について語っているインタビュー記事もあるのだ。
「週刊平凡」1966年2月17日号から、抜粋の上引用する。
尚、「芥川」とはインタビュアーの「芥川隆行」氏である。

芥川 赤塚さんはそれぞれちがった性格を、つかんでるんでしょう?六人の。
赤塚 ぼくのなかでは、六人の性格もぜんぶちがうし、それぞれイメージ持ってるわけです。ですから、それぞれの事件にあったひとりを登場させるわけです。
たとえば、動物をやっつけようってことになると、乱暴なカラ松にやらせますし、かわいそうだからやめようよ、というのは十四松、自然に性格がでますね。








ご覧の通り、赤塚先生は6人の性格が違うと明言しているのだ。


設定などはともかくとして、実際の作品中では六つ子のキャラ付けは曖昧な部分も多いのは否めないため、解釈や見方次第では「違いがない」と捉えられても致し方なくはあるが、徹底してそういう扱いにしてしまうことは早合点だ。

そして、性格に関して正式に設定や言及が存在している以上、正反対の扱いにすることは正しい情報を発信しているとは言えないし、赤塚先生に対してもキャラクターに対しても敬意が足りていないと言うしかない。


④「おそ松さん」に支配されゆく「おそ松くん」

書き換えられた文章が、どう見ても明らかに、「おそ松さん」を意識したものになっているのも、非常に鼻につく。

やたらと個性がないことを強調し、順番が不明だとか書かなくてもいいようなことをわざわざ書き…。
そしてそれが、上記の問題点に繋がってしまったとも言えるわけだ。

僕は基本的には「おそ松さん」は好きだ。
しかし同時に、快く思わない気持ちも、開始以降ずっと抱いてきている。
自分に縁もゆかりもない作品なら完全に「好きにやってくれ」と思うが、おそ松さんは思い入れも敬意もある「おそ松くん」、そして赤塚不二夫先生が関わった作品だから。どうしても、色々気になる面が出てきてしまう。
でもやはり、「おそ松くん」と「おそ松さん」が別の作品であることも間違いなかったし、おそ松さんはおそ松さんで好きにやってくれれば、という気持ちもなくはなかった。
しかし、「おそ松さん」がこんな風に「おそ松くん」に影響を及ぼしてくるのなら、さすがにどうなんだと思ってしまう。

「おそ松さん」は「おそ松くん」とは別物だとして割り切ろう、という気持ちも、この一件を前に打ち砕かれるのである。
この一件があるうちは、おそ松くんとおそ松さんをいい意味で切り離して考えることもできない。

そもそもとして、おそ松さんが始まる前は、六つ子について「見た目が同じ」と言われることはあっても、「性格まで同じ」と言われることは、まずなかったはずだ。

「おそ松くん」では、六つ子は同じに見えて1人ずつ少しずつ違う、というスタンスだったのに、「おそ松さん」でオリジナルかつ明確なキャラ付けがされたために、「おそ松くん」の六つ子が性格面まで同じに"見えるようになってしまった"ということだと思うのだ。

本来ならアニメ側を従わせる立場にあるはずの原作サイドが、一派生作品に過ぎないはずの「おそ松さん」側に合わせられていくような、どんどん支配されていくような感じがして、いい気持ちがしない。



以上、今回の問題点について、改めてまとめた。
私は自分の文章力・表現力に絶対の自信があるわけでもないので、ちゃんとわかりやすく伝えられているかもちょっと自信がない。ちゃんと、伝わっただろうか。

はっきり言うと、この件に関しては、私は怒っていると言っていい。改めてこの記事を纏めるにあたっても、所々感情的になってしまった。推敲も行なって極力ソフトにすることを心がけたが、それでも一部過激に感じる部分があったら、そこは申し訳ないと思う。

書き換え前の文章も全く問題がなかったわけでもなく、作品中で読み取れないような違和感のある内容が含まれていたりもしたので、書き換えの意図自体は理解できないわけではないのだ。しかし、すべての内容に違和感があったわけではないし、あくまでも「公認サイトでの解釈」として納得がいったし、愛を感じないというようなことはなかったし、なんであれ「6人はそれぞれ違う」という確実に確認できる赤塚先生の意向に沿ってもいた。どちらの方が良いかは、言うまでもない。
ただ、書き換え前の文章でも、そこに現在と同じように赤塚先生の名前が出されていたら、それはそれで裏付けを求めることはしただろう。そういうことだ。

赤塚先生の遺した作品や資料は膨大であり、その全てを把握するのは困難を極める…というか不可能に近いと言っていいだろう。今回紹介した資料でも、「おそ松くんニュース」はともかく、「週刊平凡」の方は目に触れなくても無理はない。
公認サイト上の利用規約でも、内容の正確さを保証はしない旨が書かれているし、ある程度の間違いや誤解はやむを得ないと思う。
しかし、赤塚先生の名前を持ち出して意図的に嘘をついているのだとしたら、「知らなかった」などやむを得ないような話ではなくなる。
だからこそ、この件ははっきりしてもらいたいし、なんとかすべきだと思っている。

この問題が解消されない限りは、少なくともこの件に関しての「おそ松さん」やフジオプロさんに対しての不信感が消えない。
公認サイトで何か動きがあっても、(でもこの人たち、ああいうことしちゃうような人たちだからなぁ…)というような感情が頭をよぎってしまう。




閲覧者の皆様
今一度申し上げます。
この件について良くないと思ってくださった方は、公認サイト宛にメールで意見を送ってください。ご協力をお願いします。




フジオプロさん。
赤塚先生に、赤塚先生の作品に、赤塚先生のキャラクターに愛があるなら、何かしら動いてください…。




(2024/2/11 加筆)
(2024/6/7)
(2024/8/9)


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