昨日の記事では表現や発信の自由だという話をしていましたが、
多様性とパーソナル、すべて認められていい。
それでも成長と進化は必須だと。
私もライフワークとして見えない世界、魂、光、神様、宇宙の話を体験を通しての話、それが科学でもあり哲学でもあるという。
それを続けていくという事ですが、
まあ人生はずっと表現の連続なんですよね、発信の連続でもある。
それはなぜかというと、普段からそうしている訳で、自分がどんな表現、どんな発信をしているかを俯瞰しているだけです。
そうして自分を知る。
発信や表現も度を超すと身勝手、要するに3次元の肉体次元の低レベルになっているだけ。
多様性でも個人の分だけ多様性を認めるばかりでは身勝手になるばかりで分裂だという話でもある。
光の様に融合と分裂の繰り返しです。
度を超すのも身勝手になるのもその多様性の世界観の中で、自分が自分に気づいていない中での成長の過程で、知ろうとしている途中。
好きに表現したら良いけど、その表現方法にも興味を持ち深め、その世界観の本質に触れる事が大切かなと思う。
我を見失わないのが一番。
我を見失うと、いったい自分はその世界観のどの部分を表現したかったのか、どんな事を発信したかったのかを見失う。
見失った時に外からの発信に撃墜されてしまうのです。
影響力ある人がネットでの誹謗中傷に心を傷つけられるという話もある。
それによってか命を失う場合も。
それも自分の発信や表現の途中で自信を失い我を見失っている時に、自分の発信や表現の本質まで見失ってしまうのでしょうね。
それほど酷い誹謗中傷なんだろうけど、
自分の発信や表現についても訳わからなくなっていて自信が持てなくなっているんでしょう。
そんな時には逃げる避けるが一番です。
その場にいる事は自分で自分をも傷つけている状況です。
自分で自分を守るのも許されていいと思います。
また自信が持てた時に表現したり発信する方が良い。
まあ数と経験で世の中はほぼ慣れてきますが、悪い状況に成れなくても良いんじゃないかという事です。
私も思い出す事の話ですが、
姑さんとの会話ですが、
別に姑さんが悪い人ではないのですが、向こうの表現に圧倒され、押し付けられ、決めつけられ、一言いう毎に百ほど返ってくるという。
言い返す暇も言葉もないまま悶々とする。
そんな状況が続きまくり、会う度に話すたびに電話の度に傷ついていた。
ある時に、私はもう義理で付き合う事をやめようと思った。
義務は果たしますが、嫌なら会いに行かない。
その代わり、私は姑の表現を受け止めれるぐらい心の器を大きくしますと誓い、それまで天の神様どうか預かっておいてくださいと天にお願いした。
姑の本質を理解しようとか、その身勝手さはどこから来るのか、どうしてそんな表現をするのか、どうしてそうなるのか、そんな本質も解ろうとした。
そうこうしていると、自分にも自信が持てるようになってきた。
見えない不安とか恐怖より、それを観える化していく事で相手をフラットに捉えることが出来たからだと思うのと、
自分の表現にも発信にも自信を持ち出したんだと思う。
相手が見えない時は自分も観えていない。
外側の表現に負けてしまう時は自分の表現にも負けている。
負けているかと言って、勝ちに行く事ではない。
理解する事だと確信した。
言葉にするとか態度にするとか、そんな表現や発信なんてできないと、
日本人は特に言う。
奥ゆかしさとか遠慮とかといった精神を叩き込まれている日本人。
黙っているとか、我慢とか、遠慮とか、口を慎むとか、
これもれっきとした自己表現である事に気づいていないだけ。
そんな人ほど小賢しさとかあざとさの精神をしっかり持っていたりすることを。
私が相手の表現の中で一番苦手なのがこの小賢しさとあざとさかなと。
その割に無意識にずけずけとじわじわと割り込んできたり浸透してくる。
ビックリする、いつの間にか邪魔されてたりすると (^^;)
素直に正直になってくれると付き合いやすいのにって (^^;)
まあそんな意識にもつい気づいてしまうから苦手意識も発生するんだと自覚している。
多様性だと言っても素直で正直な人と付き合うのが一番楽だなとつくづく思っている。
だからこそ自分もどんな時もどこでも正直で素直な表現や発信をしていこうと (^.^)
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