緩くスピリチュアリティな道を生きる…TAO

いつでも自分らしく…魂の感じるままに…気づいて行く…素直に表現する…そして楽しむ…

あとりえ "ぽみえ"

∞美容室です・・・完全予約制でマンツーマンでの完全技術∞ しっかりお話を聞き、丁寧な美容技術を提供させていただきます∞ 10:00~15:00(当日予約・時間外OK)不定休・・・ ★カット★カラー★パーマ★セット★着付けets.   ★スピリチュアルな会話もセッションもオーケーです ★

自分の信仰心をもつ事

2024-10-06 | 宗教観
  結婚を機に宗教を探求し始めた私だと話しています。
探求し出して、私の中での思考や言葉で多く使うようになったというか、癖になった事が、「そもそも?」「本当のところは?」「元々はどうなの?」「という事は?」
そんな思考癖が多くなってきました。
多分自己肯定感や自尊心が低く自分に自信が無かったからなんでも「こうだ!」と断言するのが怖かったんだろう。
人が言ってる事の方が自信あり気に見えたし、
もっと違う正解があるんじゃないかと思っていたんでしょう。

それに、自分が気づいた事や気を引かれる事、興味のある事だけなので、まだまだ知らない世界もあるだろうなと思いながらでした。

なので、結婚が機の宗教の事も義母に断る理由探しだったんですが、いろいろ知る事になり、「そもそも」という事に行きつき、
結局はもっと大きい世界があるんだ、ちっぽけなところで留まる事ではない、とか、そこに入れという方がおかしいと思えたので、義母の信仰する創価学会も否定することなく、いつでも断れると思うともう何とも思わなくなりました。
反対に人が否定するものを堂々とやれている義母の方がどうなのかと思えたから断る事に自信をもつ事にそう時間はかかりませんでした。

そうしているうちに直ぐに、前にも話しましたが、創価学会の池田大作と総本山大石寺の頭首というのか住職が喧嘩して分裂を起こしたという事になって、
そこのそもそもの日蓮宗と日蓮正宗だって分裂したんじゃないの?とかって思い、
義母は創価学会と大石寺が分裂した時に大石寺の方の日蓮正宗についた。
そして親戚姉妹でまだ創価学会に残っている人を馬鹿にする言葉を発してた!
それを観た私は義母の滑稽さに落胆だった!!
あれだけ私に言っていたのに、そして私も断る理由を探すまでやったのにと(>_<)
大阪人の言う「アホちゃう!!」という感じでした!!

その後知った事で、うちの浄土真宗も本願寺派と真宗大谷派とかで西と東で喧嘩別れしたと知ったんです。

それに、母が日蓮宗から浄土真宗の家へ嫁に来たことも本当は改宗じゃないの?って疑問に思ったし、
そんなに簡単に変われるという事はなんだ?
その中身の事は知ってるのか?と余計に疑問が湧いてきた。
創価学会の人にも中身を聞くとお経の意味も知らないというからなんでなの?って思った。

他にもそんな分裂はあったでしょう、
というより、じゃあそもそもは?という事になるでしょ (^.^)

仏教伝来してからとか、お釈迦様が伝えようと持ち帰って来た仏教だって、
大乗仏教で広くみんなに伝えようとしたけど、速やかに伝えようと弟子制度を作り、そのうちに小乗仏教となってしまい、
どんどん分裂が始まったわけで。

どんな人でも自分の正義が正しいと思うんでしょう。
自分の考えや思考が絶対だと思い出すんでしょう。
それが分裂となり、喧嘩や争いになる。

本来各々が自分の正義を正しいと思う事は間違いじゃない。
分裂や喧嘩というから変な事となるんだ!!
ただ親離れと同じで、自律で卒業で良いじゃないか!!

それをどちらが正しいとか、自分が正しいとかというエゴが大きくなるから喧嘩や闘争となるんだろう
それに力を付けようと人を集め増やし、領土を占領し、
これが戦争の始まりですよね。

そもそもは人間のエゴでしかない。
でもその戦争にまで発展しないと、また、人を傷つけるところまでいかないと気づかないのでしょう。

人を傷つけている事が本当は自分を傷つけているんだという事が大きくなり力をつけていくとそのそもそもの小さなことに気づかなくなるんですよね (>_<)

私は子育ての時にやっぱり感情的になり子供を叱ったりして、自分も苦しく辛かった。
ある時に、自分のエネルギーが大きいと気づいた時に、こんな大きなエネルギーで子供を叱ったら、子供にとったらどんな衝撃になるんだろうと思った時が有った、そのときに私は自分が感情的に怒る人間を止めようと決めたんです。

とにかく理解しよう、とにかく聞こう、とにかく話そうと。
子供に自分のエゴだと思う事を押し付けるのを止めようと、いろんな事を「止める努力」をしていきました。

親子のような小さな組織の単位だったらまだ気づきやすいんでしょうね。
自分にもまだ気づきやすい。
その親子関係の前に自分自身という個がある。
それに気づけば大きくなったところでエゴを通すことも無くなるんだと思う。

これもわざわざ宗教に入らなくても気づけることなんだと !(^^)!
宗教というのは心を育てるためのもの、
宗教というのは自分に気づく内観するもの、
宗教というのは組織ではない、宗教心、信仰心を育てるもの。

そもそもはそこを忘れたらアカンのかなって、
それを忘れるから組織に飲み込まれ、個性も無くなり、反対にエゴが段々力をつけ、広がる事だけに意識が行くのかなと。
内なる自分を観る、内観する事、心を育てる事のそもそもが何なのかを自分で説いていく方が本来の人生の目的なんだと思います !(^^)!

それをあの義母、母、が教えて導いてくれたのかなって感謝しているのです
それは母や義母の中の小さく観てもらえなかった魂が私に気づきを与えてくれたんだと!!
人の中には必ずその魂は潜んでますと信じてるかな (^.^)



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宗教によって様々な価値観。

2024-10-05 | 宗教観
母親の死を迎えて宗教観の事も書き綴ってますが。
うちの実家は浄土真宗だという話をしていました。
葬儀までに4日あって、棺の横でゆっくりしていたという話をしていました。

そんな雰囲気を察したのか葬儀会館のスタッフさんが色々話してこられました (^^;)
井戸端会議の雑談です (^.^)

浄土真宗って、前から母親も言ってましたが、「門徒もの知らず」って、簡単な宗教だと言ってました。死んだら終わりだと。
そして、毎月月参りに来ているお坊さんも先祖の名前とかでお経を読んでるわけじゃないと、掛け軸のご本尊に向かって読んでるだけだと。
へぇ~そうなんだ~という感じでした。
そんなに興味なかった頃だったので (^^;)
その頃は浄土真宗が親鸞聖人だという事も知りませんでした。
まあそんな頃は釈迦もブッダも弘法大師も空海も最澄も名前だけ社会で習ったというぐらいで知らんかった (>_<)

前に従兄妹の四十九日の時に行ったお寺のお坊さん、私の家の近所の曹洞宗だったんですが、浄土真宗は死んだら終わりだという考えで四十九日を軽んじていると話していました、曹洞宗は死んでからの一週一週の四十九日を重んじるという話もして、傘餅の話もしていた。
何とお坊さんが他の宗教の事をこんな風に言うのかと何だか違和感でしかありませんでした。きっとまだ若かったから未熟なのかなって思ってしまいました。

その「門徒もの知らず」と言われていたのは、
浄土真宗の信者がひたすら波阿弥陀仏と唱えて他の事は顧みず無知だとあざけって言われていたという。

そこの葬儀社のスタッフの人はそう言われているのが残念でならないと言っていました。
そんなことは無いと。
浄土真宗は一風変わっていると言われているけど、そんな事ないんですよと (^.^)
そのスタッフの方のキャラが濃いすぎて話が半分ぐらいしか入ってこなかったので、あんまり記憶に残ってないけど (^^;)

浄土真宗は死んだら即浄土に生まれるんだと。
だから浄土へ行く道を導いたりはしないのですと。
存在を知らせ浄化する線香も要らないし、道を灯すロウソクも要らない。
浄土を旅するためのご飯も水も要らないんですと。

普通私たちが言う「戒名」も浄土真宗は「法名」と言うんですと。
戒名というのは自分を戒め、また浄土へ向かって修行するための名前であり、既に浄土に生まれているのだから自身を戒めるための戒名は要らないので「法名」なのだと。

ある意味神道の今を生きるという事と同じように私は捉えました。
今を生きて今生で浄化していくので今が大切だと、死んでから戒めても仕方ないとでも言っている感じ (^.^)
本来なら仏教も仏になるために生きると言われているのだから、死んだら即仏で良いんじゃないかと思うし、実際即身成仏とか言いますよね
仏になるために生きている間にしっかり生きろと!!

私自身も生きている間に気づき学び悟る、それで即宇宙へ戻るという感じで、肉体に執着も無いし、墓にも入らない形あるものを残さない生き方で、あとは散骨です !(^^)!

ホントそれだなと (*^^)v

うちの実家の浄土真宗のお坊さん、
お父さんから引き継ぎ今息子さんが来てくれているんですが、
凄く真面目なお坊さんで、ちょっと可笑しい個性的な、説法も少しというか説法からはかけ離れた自分の身内話が多くて落ちのない話が次々と延々と続くんです。
笑いを我慢するのが大変なんです(>_<)

というよりも、それ以上にお経の読み方がツボで仕方がない!!
気をどこかにそらさないと我慢できない。
ホントにこんな読み方なのかが気になって仕方がない!!

それが始まったのは父親の四十九日が初めでした。
そこからこの息子さんにお父さんからバトンタッチで変わったんです。
月参りには来てたけど、重要な時にはお父さんの方のお坊さんが来てました。

この四十九日の時に、本日は……と、ぼそぼそ何か言ったんです。
よく分からんかったけど、なんかこれを読みますという感じの言葉だった。
それは親鸞聖人の物語という事だったように聞こえました。
親鸞聖人の曼陀羅なのかなって勝手に解釈はしましたが間違ってるかもしれません (>_<)

それがオペラのようで声を張り上げて高らかに歌うのです。
その歌い方というのか読み方というのか、
ホント我慢できないぐらい笑いたい (>_<)
我慢していると肩が上下に震えてくる。

それは四十九日だけかなと思ってました。
なのに、今回の葬儀のお経も、初七日のお経もまじでツボってしまってどうしようもない!!

前に他の知人の浄土真宗のお葬式に行った時にはそんな事なかったのに!
良い声で、素晴らしいお経だった。
何がどう可笑しいのか、何にツボるのかが分からないけど笑ってしまう。
多分笑えばいいという事だろうとも思う
半面真面目な私は……、
何でやろう!!
お経を哲学しろって言う事なの?何かの学びなの?って聞きたいぐらい!!

そうそうネットやYouTubeでお経を流せるやろうから一度探してみようかなって思ってたんだった!!

日本では一番信仰が多いらしい。
ちょっと興味持ってみようかな !(^^)!

でも多分最初の方の、笑い飛ばすというか、お坊さんに弔いを頼む事ではないという方向だと薄々感じている!




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宗教観を客観的に考える。

2024-09-28 | 宗教観

宗教観をもつ事が人生にとって必要だなという話をしていました。
それは自分の心と対峙するためだから。
それは人生にとって物事の成長とか成功にとっての基本となる心を置き去りにしない為でもあるのかなと思っています。
人生観や死生観を考えるにもその根本にもなるのが自身の心だと。

そんな風に考えていると、
何か一つの宗教組織に所属してしまうと、それだけしかなくなったり他が見えなくなったり、それ以外を観なくなったり。
その奥を追求する事を怠ったり、我を見失ったり、
その宗教の真理や経典よりも見える対象の教祖や高僧しか信頼できなくなり、
心が依存体質になるからです (^.^)
今まで周りの友達や知り合いで、宗教に所属している人はほとんどがそうでした。
真理を追究している人には出逢った事がありません。
ただ祈ってるとか、ただその教祖が素晴らしいとか。

最近報道で話題になっている兵庫県知事のことですが、
その人の事を評論するつもりはありませんが。

この人には政治能力や統率能力や支配能力など、そういった能力は少なからずあったんだと思います。
それに意志も考えも志もあったでしょう。
ただ本当の心が置き去りになっていたのかも知れない、
本当の心が未熟だったのかも知れません。
能力は心によってプラスにもマイナスにも働くからです。
今いろんなプロの世界でも人間性と能力の両方を持つ人の方が高みを目指し挑んでいるように。
ハッカーにもホワイトハッカーブラックハッカーがいる様にです。
そんな境目も我見失うとどちらに働いているか分からなくなるのです。
だからこそ心で、俯瞰力だと思ってます。

私は、霊界幽界の世界を知った時、霊能師に出会いました。
それから霊能師がいることを知ったんですが、
その後色んな霊能師に出会いました。
霊能力の事で、祈禱力、除霊力、浄化力、透視力、そんな事を不思議だったけど知る事になったんです。
不思議だけど本当なのかと驚く事もあったし、見えない世界を知る事で良かったこともあったし、救われたこともあったけど、
直ぐ全てを信じるという事はありませんでしたが、
とりあえずそんな能力が人間にはあるんだという事を信じることにして、
探求を深め広げていきました。

そんな中、色んな霊能師に出会いながらも絶対に入り込まない私でした。
多分そんな性格だったし、守護されていたんだと思います。

みんなが先生!とかって呼んだりしているのも違和感しかなかったし (^^;)
その霊能師をいつでも観察洞察して正体というか性質というか人間性を見ないと信じることが出来なかったんです。

ちょっとでも疑わしい性格があるとなんで?と疑問が湧いてきていたんです。
今でも完璧を求めたい性格でもあるので、
そこが私の欠点みたいなところもあったんだろうけど、反対に守られていたとも思います。
その内の何人かは能力はあれど、その能力をお金儲けだけに走ってしまい病気になったり、能力を失ったり。
性格が表面的に出てきて信じられなくなったり。

今世間一般の仏教界でも客観的に観れば同じだと思います。
僧侶でも能力と人格は別です。
それを見分ける自身の能力を磨かないと、いい出会いとなりません。

それに、仏教でも時代に乗って変化と進化が起こっています。
もっとも最初は神として見えないものを崇めていたと思いますが、どんどん人間の欲が出てくると変化していきました。
一般民を統率するために心の指針としたり、
密教なんかは能力です、祈祷とか呪術。
そして僧侶自体が我先にと我欲でその能力を身に着けようとしたり。
その目的が変わってきたりしています。

それを観てきた私は、絶対に能力よりも心と性格、人格だと。
いや!能力も人類にとっては必要なもの、
その能力は潜在意識からの発信でもあるので大切です。
両方同時に磨く必要があると考え出したんです。

なので、先ずは自身を磨く、客観的になる、自分を俯瞰するという目標も持つようになった。
自分自身も心を磨かないと成れの果ての地獄に落ちていくんだと信じ込んでいたりして (^^;)
まあそれは後に自分の心次第だという事になったけど (^^;)
それでも俯瞰力だけは磨く。
そして、客観的になるという事で他人軸か自分軸を見分けるという事。
寄り添う事は良いけど、同情は危ないとか。

一応目標なので鍛錬が始まったという感じでした。

宗教の選択というよりもその広さ深さを知り、
その後は真理を探究するようになったという事です !(^^)!


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宗教観をもつ。

2024-09-27 | 宗教観
  昨日の話の続きで、宗教を探求し出した頃の話です。
それぞれの宗派の真理はまっず置いておいたとして、
選択の自由が無いというのも不思議な話だし、
その前に自身が選択の意志を持っているか持っていないかもある。

その前に信仰心を持っているか持っていないかも凄く重要なのかなと (^.^)
別に、信仰心を持つことが正しいか正しくないか、直ぐにそこへ繋げるから本質から離れてしまうんだと思うようになりました。

宗教の探究の中で、色んなことに疑問や違和感を持つようになって、
一番に「そもそも何?」という事が気になって行ったんです。
「じゃあそのそもそもは?」「えっ?じゃあそのそもそもは?」という具合にどんどん奥の本質にハマって行った。

その探求は自分自身が絶対の自信を持つまで止まることは無かった。
途中にこれか!と思う事があって、何かを信じようとしたら、
世間が何かそれに対して騒ぐことが起きたりして中々これだ!という本質までたどり着かなかったんです。

なので、選択とか云々というよりも信じようとする素材がどんどん付随してきて、
どんどん深まりどんどん広がって行ったというのが本当です。
そのお陰で、早い段階で姑に断るというか、その創価学会にしろ日蓮正宗にしろ仏教の一部にしか過ぎないと確信を得たし、喧嘩している宗教にはこれっぽちも興味がわかなかったので、姑に何を言われようが自分の意思を伝えることが出来る自信も持てた。

それに、その創価学会も日蓮正宗も尊重したらすむ事だと思えたので断るというよりも、もっと大きな概念で学んでいこうと思えたんです。

大学生が幼稚園の勉強をしている感覚です。
否定はしないし、批判もしないけど、自分には必要ないと思えた。
既に自分の中にはその教えぐらいのレベルはあると思えたし、もっと先へ進みたいと思ったからです。
もっと違う大学や大学院を受験しくなったという事です。
かと言って、本当に受験するわけではないですけどね。
学問の探究とは違う人生の探究なので、
路線が違います (^^;)

なので、宗教や宗派に関しても何かに所属したい訳でもなく、
所属するためのその選択のための探究でもないんです。

何かに所属すると、お寺でもですが戒律や、組織なら規則があるので、
制限が増えるだけです。

そうなると個性が無くなると思ったからです。
昔、創価学会に入っている友達と話していて、多分選挙の時だったかと、
私も興味が有ったのでいろいろ話を詰めました。
そしたら彼女の一言が「あなたが創価学会に入ったら凄くなるわ」と言ったんです。
余計に訳分からん、何が凄いのか、何で凄くならないといけないのか、
そう言われて、絶対に嫌だなと思ったのでした。
そんな頃は人の評価も信じる私では無かったので余計です (^^;)

人生の指針としてあるのが宗教なのかなって思っていたからだと。

よく友達や知り合いと話していると、
昔から話が問答っぽくなったりしてたのかな、その答えが面倒くさい哲学っぽくなっていたのか、自分では気づいているようで気づかなかったのでしょう、
「それ宗教やん」とか、「宗教に入ってるの?」とか、
そんな言葉を聞くと悲しくなっていました。

みんな宗教って何だと思ってるのかなとか、
宗教の本質を知っているのかなとか、
一言で宗教を一括りにして良いのかなとか、

ひとり勝手に傷つく事もありました。
それを糧にまた次へ進んでいたりした。

私も探求の途中でしたから、前へ進みたいのに、
宗教の話をするのもご法度な日本だなと (^.^)
日本ってご法度な話、人生観もだけど死生観とか性の話のように、気を読まないといけない話が多いのも何だかなと (^^;)

もちろんどこかの宗教に所属でもすれば話も出来るんでしょうけど、
そんな組織の中の人たちはその宗教に固執して執着して猛烈な信者となっている人が多いので、客観的な話なんてできるものでも無いと思い込んでる私もいるからかな。
論破したい訳でもないしね
それほどの語彙力も無いし (^^;)

それでも人生観を語るにも死生観を語るにもその根底というか宗教観を自身で探求するのは必須かなと思うのです。
宗教観は自分の心を観るからだと。
心を知るからだと。
その先に魂を知るからだと思う (^.^)

宗教を選択する必要も絶対ではないけど、
自分の思うようにまず良いとこ取りでもして自分の価値観をまとめて構築していく自分哲学を持つ方が良いのかなと思ってるわけです (^.^)


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宗教観の探究の始まり

2024-09-26 | 宗教観

何度も記事にもしている事でもあるんですが、
母の死をきっかけに今一度……。
私が宗教観を学ぶきっかけとなったのは結婚するとなった時。
私の実家は浄土真宗、主人の実家は創価学会で、
後に創価学会は母体のお寺の大石寺であった日蓮正宗も分離する事になって、日蓮正宗の方になった訳だけど。 
主人は信仰心もなく、神も仏も信じないと豪語していた人で、
実家の創価学会を信仰する気もないし、私にさせる気もないと言ってその約束で結婚する事になった。 
けど、そんな事がまかり通る姑でもなく、
そんな姑から私を守ってくれる事もなく、
放っておいたら良いねんと言われてましたが、
嫁の立場でそんな事も出来る訳もなく、 
その時はじめて私は自分で姑に毅然と断る理由を探そうと宗教に関して少し勉強し始めました。 

それまでは私も神仏へ興味もなく、親の考えの中が当たり前に育っていましたから
 先祖からの宗派と信仰する宗派がどんな違いがあるのかも分からず 
母親の実家は日蓮宗で、父親の所に嫁に入って浄土真宗となったんだけど、
そんな事すら当たり前のようで、不思議な話、そして本来なら疑問に思っても当たり前なのに、すんなり受け入れられるのも疑問。 

なのに、私が創価学会のお家へ嫁に行くとなったら反対する母親。 
考えてみたら疑問だらけ、ハテナ?だらけ。 
母は創価学会はアカンと言うけど姑は入りなさいという。 
宗教ってなんだ! 信仰心ってなんだとなる! 
でも義理の姉はお嫁に行ったけど、そこは違う宗派なのに創価学会のまま、後に日蓮正宗へと、 それを許す姑。 
嫁の私には言うのに娘には言わん義母。 訳わからん! 
これらの事だけでも自分の考えを確立するために追求する理由となる。 
自分自身に投げかける問答でした。 
こんな中途半端で、世間から何か言われても自信持って意見も意思も反論も出来ない。 
自分の母親にも自分の考えを伝えられないと思ったのです。 

新興宗教の始まりだったか創価学会の事も人の ” ねずみ講 ” とか言われあまり世間で良い印象ではなかった時代。 
自分自身にも信仰にも自信がないのに世間の目が気になる私だったのに絶対にすんなり受け入れられない問題だった。
離婚した今から考えればその時に結婚しなければと考えるかも知れないけど、結婚しなければ宗教観を勉強する事もなかったので、今となっては必然だったなとホント感謝な事。 

私の実家は浄土真宗ってことでしたが、それは父の実家で、母の実家は日蓮宗。
その浄土真宗でも浄土真宗本願寺派と真宗大谷派とかに分かれていて、よく喧嘩していると聞いた事があります。
うちの父親の実家は真宗大谷派だと思う。
本願寺派の方が由緒あるお寺だとそちらは自慢していると聞いたり、
ホント良く分からん、今の戦争に続く前のお寺抗争が起こる起源のようにも思えます。
 
その母の実家の日蓮宗だった祖父母ですが、その祖母であった私のお祖母ちゃんは奈良県の大神神社の " 三輪さん " 信仰で、神様を信仰してたんです。
なので私の家にも神棚があって、母親は毎朝お祈りしていました。
 " みいさん " と言ってましたが、神様の化身 " 蛇の魂 " 信仰のようなもの。
おばあちゃんの所にはその魂が祀られていると教えられていました。 
まあ後にご祭神とか三輪山とかの事を知るようにはなりましたが。
なので、月に一度奈良県の御所から祈祷師のお婆さんがお付きの車に乗ってお祖母ちゃんの家に来てました。 
その日は神さんの日と言って、母の四人姉妹が子供たち連れて集まってきてました。 同じ大阪だったので。 
小さな部屋に大きな神棚があって、そこで祝詞をあげてもらってました。
その祈禱師さんのお婆さんにお祓いをしてもらってました。
祝詞が済むと、一人ずつ背中を擦ってもらい、腰に気を注入する感じで、「えいっ!」と、そして、神さんの言葉を下ろしてもらう感じで一人ずつ説法のような言葉をもらっていました。
祝詞のリズム独特な話し方でそのお婆さんが言葉を下ろしてた。
病気や痛みを治してくれたりしていたんだと思う。
不思議だったけどその時は当たり前でした。
その光景は私も今もまだ覚えています。
お祖母ちゃんが亡くなるまでだったので、中学1年生まで続いていました。

現代で、親の宗教を選べないと言われる宗教2世「宗教ガチャ」。
もしかしたら、私の家でもそれがどんな方向に進むかということでは、それと同じだったんだろうと思う。

お祖母ちゃんが亡くなると、お祖父ちゃんはその ”みいさんの魂 ” が怖いから返還したいと言って、四人姉妹で大神神社に返したそうです。

よく初詣と言えば大神神社まで父親と行っていました。
そしてその後私が40歳過ぎてスピリチュアルの世界を学ぶことになって、その先生に連れて行ってもらった最初の神社が大神神社だったので、何かのご縁を感じずにはいられなかったです。

これぞ何か先祖の由縁のバトンなのかなと (*^^*)

続く。


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