緩くスピリチュアリティな道を生きる…TAO

いつでも自分らしく…魂の感じるままに…気づいて行く…素直に表現する…そして楽しむ…

見えてる世界の自分って

2019-09-09 | スピ的視点

  鏡を見ない限り自分の姿って見えませんよね

それに、どこかから盗撮でもしてもらわない限り
所作や仕草、振る舞いなども

よく子育てをしていると、我が子の振る舞いと口振りなんかが
まさしく自分だと思う事があるって事を言う

女の子がパパに怒っている時なんかはママそっくりだとか

意外とそんな事を感じた経験が無かった私

子供達の方が個性在り過ぎて

似てるなと思うところはあってもやっぱ違う

普段から鏡を見るのが好きな私

でも所作までは気づかない

意外と人を観察するのが好きだった、
そして嫌だなと思うところを見つけてばかりいたかも
その嫌だと思う事を自分もして人から嫌だと思われるのが嫌で
その前にやめようとしていたと思う

人にどう思われるかの方が気になるのが先だったんだろうね

そう思うと、そうやりながら自分の事も変えて来たのかも知れない

そして、後には人からの見られ方や思われ方を
どうでもいいやと思えるようになり

自分を尊重出来るようになったと思うと

案外良い感じで自分を見てきた経緯があったのかなと振り返る

元々の性格の資質に「シニカル」的なところがあって

人の事も、自分の事も
先ずは「皮肉って」取ってみるみたいな

本来、皮肉るってあまりよくないイメージであるけど
そうでない様にも思う

冷静に色んな角度から物を見れるという点では必要かも

最初からは正面を信じる事をしないで
先ずは裏を見るって感じですか

なので、人の嫌なところを見つけていたのも
自分が思う嫌なところを見つけて、それは自分に自信のなさからで

それを直したり、止めていたりしながら
自分にとって完璧な自分を先ずは創り上げないと自信がもてなかったんだろう

そうは思っても
それを見ていたのは振る舞いや言動、性格、などで

この世の経験に関しては人が成功しようが何をしようが
さほど興味なかったかもしれない

それもシニカル的に
皮肉にそんなことが世にとってさほど
肝心な事ではないとみていたのかも知れません

必死に人を観て、自分の姿や本質を観ないでいた時には
本当の自分の正体って分からないけど

客観視するようになると意外と見えてくるもんです

昔から鏡を見るのが好きだったのも意味あったんだ

本質をとらえるにはそのシニカル的な面も必要なのかも

冷静に判断できる要素を考えれる





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 高次元って? | トップ | 女優には成れないなっ私 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿