緩くスピリチュアリティな道を生きる…TAO

いつでも自分らしく…魂の感じるままに…気づいて行く…素直に表現する…そして楽しむ…

哲学する課題。

2023-10-08 | 真理
  哲学するという話、続きます (^.^)
娘が結婚へのステージに向かう決心や覚悟をしたという事から自分の話を交えてしています。
結婚期のステージからいろいろ向き合う事が山積みに出てきて、何てことだとアップアップし始めた。
それはいつも記事にもしていますが、自身の家族の元に生まれそこで育ち、ほぼその家族の中の世界観で私の価値観は固まって信じていたという所に、全く別の、または反対のと言っても良いぐらいの全く知らない世界観がうんも言わせぬスピードでズケズケと侵入してきたのでした!!

あんぐりと口を開けたまま訳の分からぬまま、良いも悪いも正しいも間違いも分からぬまま、決めつけと断言の強い考えであれよあれよと押し通されていくという。

無知で未熟な私にとっては返す言葉もなく反論も出来ず、全て飲み込むしかなかった。小さなちょっとした事だけでもこれだけは自分の好きにしようと、ささやかに、どこかに疑問と違和感を残しながらです。

それを夫に言ったところで「ほっとけ」「言わしとけ!」というし、私の愚痴か悪口にしかとっていなかったんでしょう。
単なる嫁姑問題ぐらいにしかとっていなかったんでしょう。
今なら分かる、結婚というのは二人の生きて育ててきた価値観の歩み寄りだという事が。
全く違う環境とかで育った価値観というのは違って当たり前、それを融合しながら広い世界観へと人間的にも成長していくんだろう。

別に姑の事が嫌いだったわけでもない、決めつけられる事が嫌だったけど。
あんまり人の事を嫌いになったことは無い私。
「何でやろう、なんで?」という事が残るぐらい。
ただ汚いのと気色悪いのと怖いのが人でも意味なく苦手だったぐらい。
意味が見えてなかったから勝手な思い込み。

人見知りで嫌なもの怖いものに寄り付かなった人間だったけど。
まあ結婚相手と決めたからそうはいかないと乗り越えようとしていた (^^;)
ただ相手の家に物が多く雑然として落ち着かない不気味だったのが嫌だったぐらい。
そんな事指摘なんてできず、したら失礼で傷つくとしか思わなかった (^^;)
そんなところから人間性も質も何も読み取れなかった頃だったし。
今ならこんなところからも価値観の違いや相性が合う合わないも分かっただろうけど。

人が嫌いじゃなかったから向き合えたかも知れないし、
自分のところさえ綺麗にしておけば関係ないしと思って (^^;)
その頃の自分は無知だったから知らん自分が悪いと思っていたり、自分に自信が無かったから自分の方が間違っているんだと思い込んでた。

今思えば、よく結婚したなと……。
多分そんな世界観と向き合うんだと知っていたら止めてたかも知れない。
超怖がりだったから、知らない世界みたいな感じで (^.^)
全ては自分が選んだステージだったなと今では理解もしてる。

先にも言ったけど、家の中を見ていろんな事が観えてくるのは本質をみるようになってからで、かと言って、それは見かけだけかも知れないし、見かけの判断だけでは駄目だし、それでいろんなジャッジはしていけないし、レッテル貼っても駄目だし。
見せられてる自分の事も分析するし、見せられてる意味もキャッチするし、
何でも客観的分析と検証と確認は必須。
感覚人間なので言葉に出来ないぐらい色んなことを学んだように思う。

生きている目の前には哲学する課題はいくらでも転がっているわけで。
それは分析しようと思った事が好奇心で、興味で、そこから始まる。
事実と現実を客観的に分析するわけで、これは肉体レベル、現実レベル。
そして同時に客観性を養っていかないといけない、これは精神レベル。

いつもリスペクトしているおのころ心平氏のある時のブログの記事でしたが、この方も人生を哲学すると捉えておられる人でもある。
色んなワークや講演の中で、
「親の存在を哲学する」「子育てを哲学する」「男と女を哲学する」「コミュニケーションと言葉を哲学する」等というテーマを刻んで深堀していくようなことで進めて行こうとされてた。

そうだよね、と、また自分がやってきたことを肯定してもらったように思った。
結構自分の長い人生を年表にして俯瞰してみると、どんな人でも誰だって、その細かいところで哲学しているもんですよね。
私の場合も、姑の事を俯瞰したり、子育てをして自分の親の存在も哲学するようになった。
ホント事細かいテーマや課題って見えてくるもんです。

人間関係なしに生きていない私たち、自分と他人の輪郭の部分を知っていく上でも必要なそれぞれの関係。
日々その人間関係に影響され疲弊し、自由で良い、個性重視の世の中でどう関係性を築いていくかは死ぬまで考えていく事でもあると。
これは独身であっても、後に死別や離別で独身になったとしても一人家に籠っている訳ではない限り、身勝手にエゴだけで生きている人であってもです。

そんな人間関係の中に入り込んでしまうと観えるものも見えなくなり、
客観性も失い、自身の感情も見失ってしまうので、
自分の事は俯瞰し、人の事も引いて多角度から観れるようにするのが哲学する事だと。

もしこの世の人間関係の学びから卒業したとしても今度は地球のみでなく、宇宙意識の中の人間として、それは魂としてでしょうが、お役目はあると思います。
魂や意識、波動といった奥深く見えない世界観へ哲学するだと。
その見えない世界、人間の奥深くがどう関わっているかの輪郭を超えた哲学だと思います。




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