
魂が生きているなんて信じられない人がほとんどでしょう。
人生観、死生観、宗教観、そんな「観」を感じている人間も少なくなってしまっている。
それは生きること自体を感じている人が少なくなって、
いつも何かを追って追われて、心と共にいることも少ないのでは、と思ったりする。
見える世界聞こえる世界に囚われてしまって!みたいな。
まあ時代背景によって、政治によって蓋をせずにはおれなかったんでしょうか。
そして急に心を観て心と共にと言われても、また、自由に生きろと言われても、それがいったいどう意味かも分からないんでしょうね。
そういうことを昔なら仏教や、寺や神社などを通じて生き方を教わってただろうに。
どう心と共に生きるのかを、どう心を育てて行くのかを。
仏様と共に、神様と共にという感じで。
そこには魂も共にだったんだろうに。
魂がそんな頃は人魂や火の玉のように怖いもののように、いつしか自分から離れて行く幽霊かのように。
そんな身近なものではなく遠い存在となってしまいました。
自分から離れて行くもの、死んでいくのはそういう事なのか。
まだそう思うのら、離れるまでを考えられていたかも知れないけど。
いつしかその魂までも手放すような感覚になって、その手離すことが出来ない執着のように感じるようになっていると思う。
魂はいつしか人生を全うしたら、肉体から離れ自由になれるという概念ではなくなった。
肉体ほど思うようにならない閉じ込められた制限の世界だという事なのに。
魂が肉体から離れることがどれほど自由になれる事なのかを理解できない。
既に視点が変わっている、肉体次元に生き過ぎてでしょう。
心と共にというのは、魂が肉体と二人三脚で生きようとするのには最も重要な事なのに。
全てが乖離。
本来なら魂と肉体の意識が無意識に一体化しているとナイスなんだけど !(^^)!
それもこれも先ずは魂を知る事からしか始まらない。
魂を信じる事しか始まらない。
時に、昨日に話した無意識の呼吸に合わせ、魂を感じ、無意識の域に達すると、意識が自由に肉体から離れる現象も起きる事がある。
それも確かめる一つかな (^.^)
まあそれを言葉で言うと「幽体離脱」なんて言うんだけど、
またこんな言葉を使うと、違う意識が働いてしまうのかも知れないね (^^;)
でもそんな自由はいつでも誰にでもできる事なんだよね (*^^)v
それが自由にできる事に任せればこの世の臨終のときにも、「ほんとだ!」なんて言って、自由に解放される歓びと共に終われるかも知れませんね (^.^)
魂に興味持ってもらえると嬉しい私でした (*^^)v
魂と共に楽しく人生を生きて終われる人生。
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