感情という心の表現にどれだけの種類や数が在るか知っていますかという話しを数日前にしていました。
自分の感情にも気づいていない人もいれば、その元となる心にも気づいていない人もいますねという話だったり。
どれだけの表現の種類があるのかなという話。
何となく自分の事でも、人の事でも、「あぁ~怒ってるな」とか「あぁ~泣いてるな」とかは気づいてもそれがどうしてなのか、どこから何で溢れてくるのか分からない場合だってあるでしょと。
分かっているようで分からないのが心であって、その表現の感情でもあるなと (^.^)
その感情にもたくさん種類もあって、それを理解していく事が人生でもあるという事で。
理解して納得する事がこの世での心の浄化となる。
それは魂の浄化でもある。
そこに人間関係、魂関係が絡むから複雑になって勘違いが起こる。
それを自分以外の他人に矢印が向かうと余計に複雑になる。
全ては自分、心も感情も自分のものだからです。
人間関係でも理解しあう事で円満にもなる。
喧嘩も怒りも憎しみも峠が過ぎれば理解が生まれる、その奥に愛があるから。
峠にいる間は薄暗く見える物も見えない、まして心も薄暗い。
その峠も時に射す光を目指して越えていくもんです。
その時にはただ光だけを目指して、上を向いて。
心にも陽が射して。
導かれる。
心や感情も表裏一体という話でもありました。
長所が短所にもなり、短所が長所にもなる。
一瞬で変わる時もある、一線を越すと変わる時も、度を超す時も。
どんな時も自分の中には裏も表もあって、全てが自分であって。
反対があるからこそ光輝く。
それは表でも裏でも善悪でも正誤でも優劣でも何でもです。
陰陽でも太陽と月、太陽があるから月も輝いてしっかり見える。
それが満月であり新月である。
太陽の光で包まれている時には周りの小さな星の存在も見えない。
夜の闇の中には小さな星も輝きを増す。
朝焼けや夕焼けも地表の埃や闇を照らすから赤く輝いて見えている。
それも無意識に観念もなく観ているから美しいと感動する。
暗闇の中やから光が見える、光の中やから暗闇の部分が分かる。
光に照らされて影が出てくる。
自分にも光の部分と影の部分があるんですよね。
光に照らされている部分だけではない影の部分にも気づいてやる。
心や感情もそうなんですよ。
表裏一体、一瞬にして影の部分が現れたとして、
それを嫌な部分だと無視してないで、やっと光に照らされたと気づいて、光だったんだと理解してやって納得してやれば浮かばれるのです。
それが自分自身で気づかないから魂関係の間で光で照らしてくれているのです。
他者は悪者でも何でもない、ただ私の闇の部分、影の部分に、光を照らしてくれただけ。
自分の光に気づかせてくれただけ。
恨むなんて…憎むなんて…怒るなんて…悲しむなんて…
これらがやっと光輝いたんです。
自分が光の存在だと気づかせてくれた、感謝なんです。
極端やけど、がん細胞に放射線照射するのも同じこと。
それを闘うとか消すとか潰すとか言ってるなんて…。
照射した後は自分で新たな光で埋めないと…。
自分自身もある魂の時代にはその影や闇の部分で生きていたんです。
その闇として影として生かされていたんです。
そうじゃないと生きて入れなかった時代もあったんです。
やっと今生で光になるのです。
この世の心や感情をたくさん知る事で、価値観も広がり、概念も広がり、考えや思いも広がる。
そうする事で器も広く深くなる。
理解する心が大きくなるのです。
そうなると、自分の闇や影の部分も認められて受け止める事も出来る。
他人の闇や影の部分にも気づけ理解する事も出来る。
他人さんの闇や影の部分に光も充てることが出来る。
自分が当てているのに人から感情の影の部分が出てきたからと言って怒ってもあきませんよね。
自分も光になると決めたなら人の光も影も闇も受け流して理解してもっと輝かなあきません。
光になるのって結構奥深い覚悟なんですね (*^^*)
その生き方はこの世を卒業した時の続きへ繋がっていきます。
輪廻転生からもやっと卒業です (^.^)
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