緩くスピリチュアリティな道を生きる…TAO

いつでも自分らしく…魂の感じるままに…気づいて行く…素直に表現する…そして楽しむ…

聖者たちに望みはあったか?またそれは何か。

2023-07-09 | 真理
  真理という事について話していて、
その真理には言葉も言語もないという事も話しています。
イエスキリストや釈迦や空海や親鸞……などの聖者も
自分の歩んだ人生で覚醒し真理を伝えようとし、証明しようとし、伝導伝達しているんだと、そんな話しです。
それが経典や曼荼羅として後世に伝えられているのですが、それは記号や言語や図柄や言い伝えで引き継がれて行ってるのですが、
いくらその弟子だからと言っても、高僧で偉い人や教祖だと言っても、我やエゴを挟むと歪むのです。
山にこもり死と向き合い無となって修行したとしてもそこにエゴが残っていないといえるのか。
ただその人達に依存するしかすべのない一般人が付いていってるだけでは無いのか、
そのうちに高僧であっても教祖であってもエゴのない生き方をしているかしていないかは客観的に観たら分かるはず。
人を観ていると間違うし、歪むので、自分で体験しなさいと聖者たちは証明していたんだと思います。

聖者は生まれ変わりで証明したり、生きながらでも死をもって証明したりしてきた。
本来は意識の伝達です。
意思や意志とは違う意識です。
その意識は高次で、言葉のない感覚です。
先ずは自分自身の感覚を磨き研ぎ澄ましてその聖者たちの生き方を肌感覚や五感で受け取らないと。
そうでないとどんどん本質から離れ、崇める事や依存する事で教育されていくうちに別世界へと奉られてしまった聖者……となってしまう。
それは聖者たちの真意ではないと伝わってきます。

人が死んでいき仏になり成仏しなさいと教えられると、成仏する事だけが目的となったりしている、
そして偉業をなした人が偉人となり神格化するとまた別世界の人だと崇められる。
聖者や偉人たちだって、本当は生きている時が一生懸命なだけで、みんな同じ魂だという事を伝えたかっただろうに。

魂が全て別々で、別の者だという考えに変わって行った。
その区別がそもそもの分かれ道となってしまった。
崇め奉る事の概念が別の世界へ送るという事ではなかったはずなのに。

背中を見てついておいでよと言ってくれていただろうに。
ついて来れるように明かりを灯してくれているんだろうに。

こっち側が光を灯し拝み崇める方に変わって行ってる。
光を見つけついていき、経験から学ばないといけないんだろうに。

ある意味この世で本末転倒という言葉があるけど、
天では聖者がこっちに向かって自分たちの偉業が本末転倒となっているとビックリしているかも知れない。

言葉のない天や宇宙ではその本末転倒をどう伝えたがっているのか……。
それは現代の宗教の崩壊が物語っています。
宗教やその象徴が人間になってしまっているからでもあるし、
個人が個人を内観できなくなっているからでもある。

自身(個人)がどんな背中を見て、どんな生き方を見ているのでしょう。
どんな生き方の中にいるか、自分が観ている世界がどんなものか認識しているのか。
自分はそこに居たいのか、その世界が好きなのか知っているのか。
崇め奉りたいぐらい尊敬できる人なのか、
古代の宗教みたいに生贄で我がを、また、我が子を捧げられるぐらいの覚悟があるのか。
それぐらいその象徴や崇拝する教祖と一体化できるのか。
教祖の中には肉体が交わる事で一体化すると申す者もいるけど、その一体化で目覚めた自分はいるのか。

一旦やっぱり自分自身と向き合う方が覚醒への近道だと。
自身の思考をどこまで整理して無思考、無意識まで持って行けるか……。
ぐらいしないと覚醒もないし、どこかに依存するばかりとなってしまうんでしょうね。
聖人たちは依存させて生きていく事を望んで伝導してた訳でも伝達して欲しいと望んだわけじゃないんでしょう。
聖者と教祖の違いは明らかですよね。
なのに、聖者の思いはちゃんと伝わっているか……。
聖者は宗教世界にある戒律すらも求めていなかったと思うけど……。




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