二次的災害という事もあるように…、
何かには何かが重なっている場合が多い。
最初のズレにズレが重なると段々ズレが酷くなる。
ここのところ折り紙を折っているんですが、
それは何でかって?、
今度のフェスティバルの看板に飾り付ける花を折っているんです !(^^)!
その折り紙を折っていると、
最初に四角に折ったり、三角に折ったり型つけたりするんですが、
最初がズレるとそのズレで最後に仕上がりに支障が出てきて
綺麗に出来なくなるんです (^^;)
昔こんな事にイライラムズムズしたのを思い出していました (^^;)
人の雑なところも気になったりしていました
誰でも一度は鶴を折った時にそんな事感じませんか? (^^;)
まあ何に例えてるのって話で…、(笑)
年取るとそんな事すら許せるし、
自分の雑さもまま良いかと思えるようになったりと…。
折り紙ぐらいならどって事ないです (~o~)
(何でも集中していると何か考えが浮かぶ私)
ストレスという言葉ですら、
土台の傾きが段々負荷が偏り、歪み、
表面に出て来るものが「ストレス」となっている。
上辺だけを見ていても分からない事。
例えば外見という事や思い込みもそうですが。
その奥があるという事に気づかない限り、
経験に納得も出来ないで翻弄されてしまう。
先日に私の事のたとえ話で話した、
「でもね」「だけどね」という癖になっていた言葉でも
奥に隠された自分の心理というものがあったと話しました。
自分で手放そうとしたからこそ、
その奥に気づける事が出来ました。
その事により自分にとって土台となる
「魂・心・体」のバランスのひとつが解消されたという話でもありましたが。
いつもリスペクトしている、身体と心の繋がりをいろんな視点で説いておられる心理カウンセラーのおのころ心平氏のブログにもこんな事が書かれていました。
いつもこの方の視点と解き方に納得するのですが、
少し引用させてもらいますね。
怒りは、心理学怒り的に 「二次的な感情」と言われており、
その下には、寂しさ・悲しみ・助けてほしい・理解してほしい・愛してほしい、のいずれかが隠れていることが 多いものです。
怒りはそれらの蓋になっているだけで、
怒りの正体(=潜在的な欲求)は、
「わかってほしい」ということです。
「わかってほしい」から怒る。
でも、怒られた方は 余計にわからなくなる……。
怒りとは「無理解の対立」 と言えるかもしれません。
解ってわかってくれないなら、 解ってやらない。
解ってほしい、 でも、解られてたまるもんか。
この複雑な心の葛藤が 限界を超えてしまうと、
「理解の臓器」である 肝臓に影響が出てしまうのです。
肝臓の大きな役割は「解毒」です。
「毒をも解する」と書いて解毒。
肝臓は送られて来るものをよく観察し、
相手が何であれ、よく解き明かして
自分に必要なものであるかどうかを識別する。
怒りというのは、この「相手を理解する」という肝臓の作業を、
もっとも妨げる感情なのです。
寂しさ、悲しみ、助けてほしい、理解してほしい、愛してほしい、
そして、解ってほしい相手のことや、
自分の気持ちの 「理解」を諦めた先に、
いろんな生活習慣病が 待っているのかもしれません。
まさしくそうですよね!!と思うのです。
生活習慣病などは、普段の生活に隠された心理です。
それの積み重ねによりズレの上にズレが重なり、
表面に出て来たズレは歪みの型崩れになっちゃうのかなと。
ちょっとしたずれでも重なると大きなズレに。
そうなると根本の土台のズレを見つけることが必要かなと思うのです。
折り紙ぐらいなら最初からおり直そうかなと思うけど、
それでも折り目が邪魔する時だってある (^^;)
それが医師に見つけられるとは思わない。
表面上の処置はしてもらうでしょうが、
心のズレは自分にしか見つけられないのかなと。
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