まずは地図です。 場所は 千葉県香取郡多古町と 匝瑳市の境目あたり。
国道296号から 東総広域農道へまがり 借当の交差点から県道74号を西へ(交差点から 300mくらい)
越川商店を過ぎると右に登り坂があるので曲がります。(越川商店さん、道路の両側に店舗があります)
坂を登りきると、右に土やぐら城 左に物見台城があります。
自動車は諏訪神社・集会所の駐車場に停めると良いです。
こちらの住所は、千葉県 香取郡 多古町南中 字中城62-1(物見台城跡)
次に鳥瞰図
古くは二つの城で中城と言い、中央に走る坂を中城坂と言う。
その後、現中村小学校近くに、本格的な中城がつくられ、この三つの城で南中の防御をしていた。
(中城から千葉胤貞公の居館の久保城までは約900mであり、分城からも900mで、久保城はこの二つの城で敵をシャットアウトし、守られていた。・・・並木城はそれらより若干遠く、借当川から近いため、船戸に貨物が到着する物流箇所であって、そこは門戸を開いていたようである)
久保城 分城 中城 (並木城) の位置関係
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まずは土やぐら城
中城坂を登ると東側に案内板があります。 冬場は見えますが、夏は草に隠れてしまい、見えなくなっているかもしれません。
矢印の方に歩くと、前方に篠竹の林が見えます。
直線的にはお城は見えませんが、竹より左側の高い木々が城址と言えるでしょう。
これはもっと右に寄った写真、右に中城坂が写っています。
この中城坂は、地元の方のお話によると、昔は本当に人が歩く程度の、細くて小さな道だったそうです。
竹林を過ぎて、さらに歩いてゆくと、城跡です。
手前に畑があり、木のもとに標柱と説明板が設置されています。
標柱と説明板。 その後ろが土やぐら城。(木材を使わないやぐら、土やぐら跡ということなのでしょうか)
これが城跡近辺。 このやぐら台に階段の足場がついて、登りやすくなると色々面白そうな丘です。
この周辺は畑もそうですが、曲輪状になっていたのではないかと思われる平地があります。 この写真は、城跡の裏手ですが、当時はここに何かしら建物があったのかも知れません。
やぐら上に登ってみての風景。 左の現匝瑳市から、横芝光町まで見えますね。
当時は、借当川や栗山川の水運は、今でいえば国道や高速道路・空路と同じで、非常に重要視して監視所をここに集中させたのでしょう。
山城の裏手はすぐがけになっていて、その下に集落があります。 こちらは、そこのお寺です。 上が城跡になります。 (こちらから、崖を登って襲撃するのは出来なかったでしょう、監視場所にはいいところを見つけましたね)
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次は物見台城 土やぐら城のすぐ近くにあります。
諏訪神社からその奥の畑道を西に行くと物見台城跡がありました。
ここは自動車では入れません、諏訪神社の駐車場に自動車を停めましょう。 また、 諏訪神社周辺に物見台跡への案内板は今のところありません。(民家の近くのせいか)
この塚が物見台城跡。 左に標柱と説明板が設置されています。
この塚ですが、見てくれより、実際に登ってみると案外良く見晴らせるのです。標高35mくらい?
ただどこの城郭の物見台もそうですが、目前に木が生えてしまい、スカッとするような光景が見られないのが残念です。 当時は木がなかったはずなので、惜しいところです。 今後、城郭保存会で整備をしてくれるでしょう、と地元の方もおっしゃってました。
右側が城址です。 物見台ということで、周辺に館があったのかも知れません。
小丘のその左には、腰曲輪と思われる箇所がありました。 ここにこんなのがあるとは全然知りませんでした。 (整備で出てきたのでしょう)
そして駐車場に戻ってきましたが、神社の裏手に古人を埋葬したという箇所があり、その手前に小さめの堀、そしてその奥に盛り上がりの部分がありました。
防御用の空堀の直線的なものではなく、ギザギザな円形という堀で、何かの建物を囲っていたのかと思われます。 (果たして、こちらが居館だったのか?塚? また見に行ってみたいと思います)・・・塚の部分を見るには、長靴やら虫よけやら装備が必要ですね。
ここからは、道路が放射線状?になっていたり、民家で行き止まりになっていたりしました。 島部落と同様に、攻めにくくしてあったのか? 知らずに自動車で進んでしまうと、Uターンが大変なことになります。 駐車場からは徒歩で散策しましょう。
最後に、諏訪神社については、私は以前は妙見神社ではなかったかと思っていましたが、近くの別の場所(借当?)に妙見神社がありますね。 土地の人からは、ぶらり散歩のパンフレットに掲載されている「千葉氏亡き後、葉木氏が氏神として自宅に移したが、村人の信仰が・・・」ということと、同じことしか聞けませんでした。
村の鎮守としたときに、諏訪神社に変わったのかどうか、志摩城と同様に不明です。
また、土やぐらと物見台を合わせて中城と言っていた頃があり、その鬼門の方角というと、この諏訪神社あたりが鬼門の方角で、そこに神社を祀ったとなればつじつまが合います。 小学校の方にある中城からみて鬼門となると、ちょっと方角が違うように感じていました。
※追加:神社の前に少しこんもりとした感じの土の盛り上がりと木々があり、私は土塁の一部だと思っていましたが、地元の方が言うには、元は台地であって土塁ではなかったとのことでした。
☆☆☆☆☆ 追加
多古町役場のデジタルアーカイブに、この周辺のことの記述があります。 ゆっくり読むと浮かんでくるものもあります。
デジタルアーカイブ
目次 / 地域史編 / 旧中村 / 南借当(みなみかりあて)
遺跡・旧址 287 ~ 289 / 1100ページ
中村砦址
大字南中字中城にある。香取郡誌によれば「面積五町歩に亘る。
地勢概ね平坦にして畠地となり、東南を楼櫓となし高さ五丈余(約一五メートル) の塁址を存し、西北に空湟あり周囲は概ね水田たり、以て昔時の状を追想するに足る」とその概況を説明し、次いで「伝え言う。永承中(一〇四六~五二) 中村小太郎常方、源頼義に属し功あり。本城を築き子孫に伝えしが、享徳・康正中 (一四五二~五六)中村但馬守之に居り馬加氏の亡ぼす所となる」と記している。
平安時代(七九四~一一八五)の中ごろ、この地方一帯に君臨していたとされる中村太郎忠将は、桓武天皇の曽孫高望王より出た家柄の大豪族であるといわれ、父忠常は房総の各地を侵攻して「長元の乱」を起こし、ついに源頼信に降伏したが、このとき頼信が「降伏した者はしいて罰すべきではない」と寛大に考え、賊の汚名を着せて忠常を死罪にするようなことはせず、京都に護送される途中忠常は美濃で病死したので、その首だけを朝廷に差し出し、また子供たちの赦免の事をとりはからった。
このような恩義に感激した千葉氏族一統は、それから源氏に好意を持つようになったといわれ、小太郎常方も頼信の子頼義に属し、父忠将(中村公ケ辺田(きみがへだ)台 (坂並台地)に館し、人呼んで太太(だいた)長者という)の居城坂並から鴻巣台へと移り住んだものであろう、と伝承されている。
続いて、「東北に妙見社あり、城の鎮守神たりしと。更に渓谷を隔てて監物山あり、共に南借当に属す。伝えて其臣隷の属城となす。址中往々古瓦を出し、古井を存す」と記載されているが、この妙見社は常方のみならず、千葉氏一門の守護神であることはつとに知られているが、前述のように、中城主の鬼門除けとして祀ったということである。
監物山が家臣の属城であったということについては、その地形や他の支城との配置関係などから考えても、砦があったであろうことは容易に想像できる。
土櫓(つちやぐら)およびその周辺
妙蓮寺よりやや南方の台地上にある。東は崖となり周囲は畑作地である。
ひときわ高い小山の形状をなし、樹木が茂っている。借当川流域を一望し、吉田・飯高・日吉方面の様相が手にとるように察知できる位置にある。小字名のとおり「土櫓(つちやぐら)」であり、中城の見張台であったものと思われる。
土櫓
この近辺に古宿(ふるじゅく)という地名があり、昔の街道沿いと思われる所であるが、先年周辺の畑から住居跡が現われたという。
また、東方根方に「馬洗井戸」という井戸があり、当時中城の武士たちが壺岡城(宮)へ行くとき馬を洗ったところと伝えられる。今は耕地整理のためその跡をとどめない。
村落の中心道路から県道多古・八日市場線に出て四〇メートルほど西へ進むと、県道北側に道祖神と稲荷社が並んで建てられている。(?)
道祖神は四〇センチ位のものから二〇センチほどのものまで数基あり、年号の知れるものは「文政十三年(一八三〇)」が一基である。その東隣りに稲荷大明神があるが、「天保二卯(一八三一) 二月吉日」の文字が見られ、高さは五〇センチ弱である。
さらにその東側には昭和五十七年三月建立の稲荷宮があり、「寄贈 越川幸蔵 氏子総代 宮内勝治 並木昭典 越川清 三枝正志 宮内嘉助 並木克巳」の刻字が見られる。
(以上)
また探索して写真も撮ってみたいと思います。