今回紹介するのも、そのような伽藍再建に関する話である。
六十九 慈恵僧正が戒壇を築いたこと
これも、今は昔のことだが、慈恵僧正は近江国浅井郡(現在の滋賀県長浜市内)の出身であった。
比叡山の戒壇について、人夫がいなかったので築けなかった頃、浅井の郡司と僧正は親しかった。しかも、導師と檀家の関係で仏事(法事)を修する時には、慈恵僧正を拝請したのであった。供養膳のおかずに、僧正の御前で大豆を炒って酢をかけた様子を見た僧正は、「何故、酢をかけるのかな?」と質問されたので、郡司がいうには「温かい時に酢をかけると、すむかつりといって、皮が縮んで、箸で挟みやすくなるのです。そうでなければ、滑って箸では挟めません」と答えた。
僧正がいうには、「どのようであっても、どうして挟めないことがあろうか。豆を投げて寄越しても、挟んで食べてみせよう」と仰ったので、郡司は「どうしてそんなことができましょうか」と反論した。
そこで僧正は、「もし私が勝ったならば、他のことはいいません。(比叡山に)戒壇を築いて下さい」と仰ったところ、郡司は「それは容易なことです」といって、炒った大豆を僧正に投げて寄越した。
僧正は、一間(2メートル)ほど下がって立ち、一度も大豆を落とさずに箸で挟んだ。それを見た者は驚かないものはいなかった。柚子の種の、今絞り出したものを大豆に混ぜて投げて寄越したときは、挟み切れずに滑ったけれども、それでも落としはしないで、空中で挟んでしまわれた。
郡司の一族は縁者が多かったので、人数を集めて、日も置かずに戒壇を築いてしまわれた。
『宇治拾遺物語』巻上、当方による訳
上記一節(及び前後数段)は、『古事談』にも同じ話が見えるそうで、関係性が指摘されている。なお、この浅井の郡司については、当方でも容易に見られるような先行研究を見たけれども、ちょっとどういう人達なのか分からないらしい。しかし、良源上人の地元の有力者であり、わざわざ仏事の導師に招いているくらいなので、非常に良好な関係であったことは間違いない。良源上人自身は、地元の豪族であった木津氏の出身だったともされるのだが、その縁者だった可能性もある。
それで、上記の話は非常に面白い。まぁ、食べ物を粗末に扱っているようにも見えるから、怒るような人もいるかもしれない。話の流れは、上記訳文を見て貰えば分かるのだが、要は、仏事の供養前の際に、郡司自身が上人の目の前で大豆を炒って、酢を掛けたという。その様子を見ていた上人が、そうする理由を聞いたところ、箸で掴みやすくするためだという。
どうも、この段階で上人は自分の曲芸を見せつつ、この郡司に戒壇院の再建をお願いしようと決めたようにも思える。上人は、投げて寄越した豆であっても掴めると豪語し、挑発しながら、結局郡司が投げて寄越した大豆を全て空中で掴み、柚子の種までも掴んで見せた。この一芸だけあれば、現代でも芸人としてやって行けそうな気もするが(それこそYouTuberとして「大豆チャレンジ」とか出来そう?)、どうだろうか?
結果として、勝負に負けた郡司は、約束通り比叡山の大乗戒壇を再建したのであった。
で、当方がこの記事を採り上げようと思った理由は2つで1つは、良源上人という人が、少なくとも説話では「勝負師」として語られているというのが新鮮だったからである。まぁ、この人は清廉潔白な清僧というよりは、清濁併せのむタイプのマルチタレントだったので、比叡山の威光を再度輝かせたと評価される反面、高級貴族の子弟の比叡山入りを促したこともあり、いわゆる権門寺院化していく原因を作ったとして批判もされる。
それから、大乗戒壇であるが、再建の話が出ているということは、当然にこの頃は無かったということになるだろうが、良源上人の頃というと、まだ修行途中の頃の承平5年(935)に起きた火災はかなり大規模で、比叡山の根本中堂を初めとする多くの堂塔を失い、荒廃したという。また、良源上人自身は、康保3年(966)に天台座主(18代)にも就任したが、その時にも火事があったという。しかし、上人自身は藤原師輔との関係も良く、比叡山の再建は師輔主導で行われたようだが、戒壇は浅井の郡司に頼んだということになるのだろうか。史実かどうか知らないが、この逸話、大変に興味深いものである。
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