一には少欲〈彼の未得の五欲の法の中に於いて、広く追求せず、名づけて少欲と為す〉。
仏言く、汝等比丘、当に知るべし、多欲の人、多く利を求めるが故に、苦悩も亦、多し。少欲の人、無求・無欲にして、則ち此の患い無し。直爾、少欲、尚応に修習すべし、何に況んや少欲、能く諸功徳を生ず。少欲の人、則ち諂曲にして、以て人の意を求めること無し。亦復、諸根の為に牽かれず。少欲を行ずる者は、心則ち坦然として、憂畏する所無し、事に触れて余り有り、常に不足無し。少欲有る者は、則ち涅槃有り。是を少欲と名づく。
『正法眼蔵』「八大人覚」巻
さて、今日は必ず「八大人覚」巻を学ぶ日にしようと思うのだが、とりあえず「少欲」について学んでみたい。上記引用文は、完全に引用文である。『仏遺教経』から項目と説明文を引用し、更に『大乗義章』巻13「八大人覚義」から割註に当たる文章を引用している。
そもそも、「五欲」とは色欲・声欲・香欲・味欲・触欲、という「五境(五塵)」に対する欲を指している。そして、その中で未だに得ていない法を追求しないことを、少欲というのである。難しいように思えるかもしれないが、実践的には普段から欲深くないことを意味している。
それでは、「汝等比丘、当に知るべし」以下は何を意味しているのだろうか。これは、多欲の人は、自らの利益を求めすぎるが故に、苦悩が多いことをいう。これは、現実に即して語られている。現実に於いて、自らが希望する全ての物品を得ることは少ない。よって、得られないことを理由に、更に苦悩が増大していくのである。
だからこそ、少欲が説かれる。少欲とは、求めること無く、欲が無く、よって、先に挙げたような苦悩が少ない。そのような生き方は、まさしく我々を楽にしてくれる。求めることが少ないことは非常に良いことなのである。
そもそも、少欲の人は、様々な功徳を得るけれども、心が落ち着いていて、憂畏することがないという。全ての事象に対して「余裕」を持つこととなり、不足が無いのである。また、ここには書いていないが、余りに余裕がある時には、本当に満ち足りていて、周囲の事象に対してありがたい気持ちを懐くことにもなる。
本人の希望することが無くなるだけで、それほどの功徳を得ることになるのである。何とありがたいことだろうか。よって、少欲の境涯を得た人は、涅槃がすぐそこまで来ているのである。後に、禅宗ではこの境涯を、端的に「放下著」などと表現した。一切にとらわれず、ただ捨ててしまうことをいう。これも、少欲の転じた様子である。
特に、実践的に少欲を行ったのは、明らかに禅宗である。拙僧はその系譜に連なれることを、ただ喜びとしたい。何かの境涯を得て凄いというのではなく、得ていないだけで良いということになる。しかも、それによる世間からの評価を期待することもなくて良い。もう、満ち足りるしかないといえる。
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