除夜小参に、挙す。
薬山、雲巌に問う「汝、百丈に在りしを除いて、更に什麼の処に到りてか来る」。
雲巌云く「曾て、広南に到りて来る」。
薬山云く「見説すらくは、広州城東門の外の一団石、州主に移却せらる、と、是なりや、否や」。
雲巌云く「但、州主のみに非ず、闔国の人移せども亦、動かず」。
薬山・雲巌、既に恁麼に道う。永平、豈、道ぜざることを得んや。但だ州主のみに非ず、闔国のみに非ず、三世の諸仏、一切の祖師、尽力して移せども亦、動かず。甚と為てか斯の如くなる。
良久して云く、
彼々如にして内外無し、塵々固くして必ず三昧なり。
也大奇、也大奇。全体明らかに瑩いて、宝貝無し。
『永平広録』巻8-小参14
さて、この除夜の小参。拙僧は不勉強で、どうしてこの公案(典拠は『景徳伝灯録』巻14「雲巖曇晟禅師」章か)がこの小参に用いられているのか分からないが、とりあえず内容としては、仏法そのものである城外の丸い石をどうすれば動かせるのか?という話である。そして、仏法そのものは動く・動かないという状況を超越し、それこそ「不動」としてあるのである。それは、石が特定の空間を動いたということを意味してはおらず、ただ石が石としてある事実を動かし難かったのである。
そして、その石が石としてあるというとき、それは何物にも代え難い存在であり、そのかけがえ無さこそが「也大奇也大奇」なのである。
ところで、大晦日といえば、「除夜の鐘」がよく行われていると思う。関連して、臨済宗の学僧・無着道忠禅師は、以下のように指摘する。
忠曰く、俗説に、仏寺、朝暮に百八鐘し、百八煩悩の睡を醒むるとするは、非なり。天竺の相は、本と一百二十下〈事鈔、及び資持記に見ゆ〉を作し、未だ百八下を聞かず。其の百八の数、中華の世典に出づ。所謂、十二月・二十四気・七十二候を合成して百八なり。乃ち応に知るべし。百八煩悩の眠を覚むるとするは、燭を挙げよの燕説なり。
無著道忠禅師『禅林象器箋』巻27「百八鐘(附百二十下)」項
これは、本来毎日の朝晩に撞かれるべき鐘について指摘されたものだが、そもそもインドでは108回では無かったため、煩悩の数を当て嵌めること自体が批判されているのである。よって、煩悩は除けないかもしれないが、除夜の鐘の打ち方として、まず鐘に向かって合掌一礼し、「鳴鐘の偈(三塗八難 息苦停酸 法界衆生 聞声悟道)」を唱え(或いは黙念)てから打つ。連続して打つと鐘に悪いので、1回打ったらちょっと間を開ける。
宮城県栗原市の山奥にある拙寺でも、皆さまのお越しをお待ちしている。
ということで、皆さまの一年間の閲覧に感謝申し上げ、今年の更新は以上までとしたい。良いお年を。
つらつら日暮らし管理人 合掌
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