歳朝の上堂に、挙す。
宏智古仏、天童に住せし歳朝の上堂に云く「歳朝坐禅、万事自然。心々絶待、仏々現前。清白十分なり江上の雪。謝郎満意す釣魚の船、参」と。
師云く、今朝、大仏其の韻を拝続せん。
良久して云く、
大吉歳朝、喜坐禅、応時納祐、自ら天然なり。
心々慶快にして春面を笑う。仏々牛を牽いて眼前に入る。
瑞を呈し、山を覆う、尺に盈つる雪。人を釣り己を釣る、釣漁の船。
『永平広録』巻2-142上堂
意味だが、元旦の朝に、道元禅師は上堂されて、公案を採り上げられた。「宏智古仏が天童山の住持をしていたときの元旦の上堂に言われるには「元旦の坐禅とは、万事が自のずから仏法の道理となり、心は何ものにも対せずに、仏が目の前に現れるのである。清白で十分なる川の上の雪の姿を見て、玄沙師備はその意を満足させたのは釣り船の上であった。さて、このことをよくよく考えてみよ」と。
今朝、大仏(=私)は謹んでこの韻を踏んで偈頌を読んでみよう。そして、しばし無言の間を置かれてから言われた。大吉なる元旦には喜んで坐禅をするのだ。そのときには、坐禅の助けをもって、全ての存在が自ずと仏法の道理に契っている。心は慶快で笑顔は春のように晴れやかであり、仏は牛を牽いて目の前にある窓を通りすぎるだろう。素晴らしき姿を現しながら、山には30㎝ほどの雪が満ちており、人も己も知り尽くすのが、まさに玄沙の釣り船であった、などと訳せるだろうか。
道元禅師は、元旦には熱心に上堂をされた年が多いが、一方で元旦という「年始め」が意味することを哲学的に探究する年もあれば、この年のように、中国曹洞宗の宏智正覚禅師の言葉を引用しながら、ただ祝うという内容の年もある。これは、寛元4年(1246)に大仏寺で行われた新年の上堂と推定されている。
さて、このお祝いの上堂に関連して、「大吉」ということから話を進めてみたいが、拙僧のお寺では新年に「立春大吉」と「鎮防火燭(実際には「燭」の字で火と虫は逆の位置とする)」のお札を伽藍全ての入り口に貼る。本来、「大吉」札は立春の節分に貼るべきなのだが、口伝で以上の通りである。
恐らく、道元禅師や、本師・如浄禅師、或いは宏智禅師の新年の上堂に「大吉」の語句が出ることから、便宜的に新年に行っている(他にも、旧暦・新暦の問題なども関係か?)のだと思う。
そんなわけで、まず新春の大吉をお祝いしたい。なお、各地の曹洞宗寺院では「修正会」といって、600巻もある『大般若経』を転読して、その功徳によって皆さまをお祝いしてくれる法要を営む場合が多い。もしよろしかったら、初詣ついでに曹洞宗の寺院に足をお運びいただければ良いのではなかろうか。なお、拙寺では山内で実施しており、公開していない。
ただし、その功徳を回らして、読者の皆さまの一年が良い年になることを願う。
つらつら日暮らし管理人 合掌
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