九月初一の上堂。
功夫猛烈、生死を敵す。誰か愛せん世間の四五支。
縦え少林三拝の古を慕うとも、何ぞ忘れん端坐六年の時。
恁麼見得、永平門下、又、作麼生か道わん。
良久して云く、
今朝、是、九月初一、打板坐禅旧儀に依る。切忌すらくは、睡ること、要すらくは疑いを除かんこと。瞬目及び揚眉せしむることなかれ。
『永平広録』巻6-451上堂
道元禅師の坐禅は、他に何かを実現するための手段としてではなく、まさに無上菩提として仏教に於ける智慧の完成として存在する。或いは、わずか一時の坐禅であっても三世十方を証契するともされる。すべからく回向返照の退歩であり、身心が自然に脱落することで、本来の面目が現前するからである。
この上堂の意味だが、修行を猛烈にして、生死を敵とするのだ。誰が世間で必ず別離する「四事・五欲」を愛することがあろうか。たとえ、少林寺で(二祖慧可大師が達磨尊者へ)三拝した故事を慕っても、どうして達磨大師が坐禅を六年もの時をされたことを忘れることがあろうか。そのように見たのであれば、我が門下は、またどのように言うべきだろうか。
そして、道元禅師は「今朝は九月一日であり、板を打って坐禅することは、古来からの方法に依る。(坐禅で)忌むべきなのは、眠ってしまうことであり、行うべきなのは疑いを除くことである。瞬いたり眉を揚げさせてはならない」と示された。
難しいのは、最後の一句であろう。ここで、江戸時代の「卍山本」では、「切忌すらくは、睡中に疑いを除かんことを要す」と読んでおり、「中」が入っている。でも、後の文言を考えてみると、「瞬目」などは、睡中に行われたことの延長なので、もしかすると「卍山本」の方が意味が採りやすいかもしれない。
この辺は、また祖山本・卍山本の実際の様子を見ながら検討しなくてはならないが、今日はここまでとしておきたい。日本も若干涼しくなって、坐禅の好時節に到った感じだろうか。
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