亦た橋梁の如し、能く衆生をして、生死・煩悩の駛流に堕せざらしむ。
『菩薩念仏三昧経』巻3「不空見勧請品第八」
「橋」を意味する「橋梁」という用語で色々と調べてみると、釈尊に由来する阿含部経典からも用例を見ることが出来るが、ここでは大乗経典を引いてみた。仏教では大概、この煩悩にまみれた世界を「此岸」、そして清浄なる世界を「彼岸」としつつ、その渡り方について教義・実践が組まれていると言って良い。
その中で、渡る方法の譬えとして出てくるのが、「船」と「橋」なのである。今回は、「橋の日」なので、「橋」について採り上げてみた。それで、「船」と「橋」について、どうも、多く出てくるのは「船」のようである。理由を考えてみたのだが、おそらくは「船」の方が、「大乗」だったり、「自力・他力」だったり、他の教義的な説明を入れやすかった、という都合があったようである。
確かに、「橋」であれば、ただ衆生が渡るだけである。もちろん、橋を掛けること自体が、重大な菩薩行と言えるわけだが、その上は衆生が自力で歩かねばならず(背負っていく、とかいう話もあるとは思うが)、その点、「船」の場合、菩薩が船頭となって、多くの衆生を此岸から彼岸に連れていく、というイメージを持ちやすいわけである。
更には、現代であれば、例えば瀬戸内海にかかる複数の大橋のように、巨大な構造物としての「橋」をイメージできるが、かつてはもちろん、手作りの小さな橋だったと思われる。そうなると、橋で多くの人を救うというイメージは、しにくかったのかもしれない。もちろん、船だって、巨大なものはなかっただろうが、それでも、一つの船で複数人が川を渡るイメージが持てたはずである。
こういうところからも、「橋」が仏教の教義・実践の譬えに使われる可能性があったとしても、より「船」の方が良いという話にもなるわけである。
ところで、先ほど、「橋を掛ける」ことが「菩薩行」だと述べたが、この辺について伝統的な教えが残されている。
八福田とは、人有りて云わく、
一に曠路・美井を造る、
二に水路・橋梁(を造る)、
三に嶮路を平治す、
四に父母に孝事す、
五に沙門を供養す、
六に病人を供養す、
七に危厄を救済す、
八に無遮大会を設く、
未だ何れの聖教にも見出だせず。
法蔵『梵網経菩薩戒本疏』巻5「不瞻病苦戒第九」
以上の通りなのだが、『梵網経』巻下に見える「八福田」という用語について、法蔵は典拠不明としつつも、「二に水路・橋梁(を造る)」という考えがあったと指摘している。この「福田」というのは、まさに「菩薩行」を意味する言葉で、これを行うと、多くの功徳となってその実践者に返ってくる行為を指す。つまり、「橋を掛ける」こととは、多くの功徳が得られる菩薩行なのである。その点から改めて教を探すと、以下の一節が見られる。
菩薩、衆生の救護を作さんと欲して、橋梁を作りて、菩薩の法と為す。自ら当に衆生を救摂すべし。
『放光般若経』巻18「摩訶般若波羅蜜住二空品第七十八」
このように、橋を掛けることとは、現代ではインフラの整備ではあるし、かつても同様だったが、そこに仏教に於ける「救い」のあり方を見ていくのである。本来、仏教は自行自度の教えであったが、大乗仏教になって、救済論の拡大を見せる中、「橋梁」の意味付けが深められた様子が分かる。
今日は「橋の日」。ほとんどの人は、誰かが掛けてくれた「橋」を渡るかと思う。余りに当たり前になっているが、感謝の気持ちを忘れてはならないと思う。
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