つらつら日暮らし

「第一官律名義弁」其十三(釈雲照律師『緇門正儀』を学ぶ・13)

ということで、もう10回以上、釈雲照律師『緇門正儀』の「第一官律名義弁」の内容を見ている。なお、これは【1回目の記事】でも採り上げたように、「今略して、僧に位官を賜ひし和漢の官名、職名及び初例を挙示せん」とあって、職名の意味というよりは、任命された最初の事例を挙げることを目的としているようである。よって、この連載では、本書の内容を見つつ、各役職の意義については、当方で調べて、学びとしたい。

そこで、今回はこれまでの拙僧が聞いたことが無かった役職名があったので、学んでみようと思った。

一 断事沙門
 周隋の際に法遵という有り、専ら律範に精なり、北斉の主、既に法門を敞にして、五衆斯に盛なり、犯律の者有れば、遵をして之を理ひせしむ、勅して断事沙門と為して、時に青斉の僧訟有り、勅して之を断ぜしむ、繁争自ら弭む、隋に至て詔して、大興善寺に住せしむ、断事の名、遵統を始と為す〈後に升て統と為る〉、
 隋の日厳寺の釈彦琮、僧官論を著せり、必ず広く僧職を明かし、本を求むれども、未だ獲ざるのみ。
    『緇門正儀』7丁表、訓読は原典を参照しつつ当方


以上の一節は『大宋僧史略』巻中から、ここ数回の記事と同じく「三十五雑任職員」を典拠とした文章であり、ほぼ同文である。そこで、「断事沙門」という役職が紹介されているが、この「断事」とは、事の次第を裁定する、の意味である。よって、上記も、裁定に因む内容であることが理解出来よう。

以下、簡単に内容を読み説いていきたい。「周隋」についてだが、南北朝時代の北周(556~581)と、南北朝を統一した隋(581~618)を兼ねて表現したものである。その時代に、「法遵」という僧がいた。なお、『釈氏稽古略』巻2「隋・高祖文帝」項を見てみると、「仁寿四年(604)(同年に文帝は崩御)」に法遵に対して勅を出し、全国に仏舎利を見せて回らせた様子が書かれており、隋代の国の意向を聞いて動く僧侶だったようである。

ただし、上記のように述べると、国家に阿る僧侶だったと理解されそうだが、実際には仏教の戒律に詳しかったようで、そのため、北斉(550~577)の主(おそらくは、後主と呼ばれた第5代皇帝か?)が律を犯した者を、法遵に依って罰を与えさせたようで、この時、「断事沙門」という役名を与えたようである。

「青斉」とは、現在の山東省付近を指しており、北斉の支配下だったようだが、その地域の僧侶が訴訟を起こした際にも、法遵によって裁定させた。そして、隋代になると、法遵は大興善寺の住持となり、更に、僧統にも上ったようである。

それから、ちょっと面白いのは、その後の記載で、隋代の日厳寺の僧侶だった釈彦琮のことについて言及されている。彦琮は、『続高僧伝』巻2に詳細な伝記が見られるが、著書として『福田論』『僧官論』『慈悲論』『黙語論』『鬼神録』『通極論』『弁聖論』『通学論』『善知識録』などを著したそうだが、おそらくは僧侶の官位などについて論じられていたであろう『僧官論』が、既に『大宋僧史略』編集の段階で現存していなかった様子が理解出来る。

しかし、「断事沙門」とは、僧侶の犯律について裁定する立場だったわけだが、国家側に立っていたのか、僧団側に立っていたのか、それ次第で評価が分かれる役職だったように思えてしまう。詳細が伝わらないことが残念である。ただし、法遵には簡単な伝記も残っていたようである。

洪遵僧統〈他綜反〉、相州人なり。承暉に学ぶ。後年、纔か十臈にして、律宗を開闡し、四遠、風を望み、堂に盈つること計なり。斉主、其の徳望高遠なるを以て、琮、授けて断事沙門と為す。後に疏八巻を制し、大業四年、京の興善寺に終わる。春秋、七十有九なり。
    『四分律鈔簡正記』巻4


ここからは、隋代の大業4年(608)に79歳で遷化したとあるので、生没年は530~608年であり、南北朝後期から隋代にかけて活動した僧侶であったことが理解出来よう。

【参考資料】
釈雲照律師『緇門正儀』森江佐七・明治13年

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