・生臭坊主と言わないで。お寺の多角経営が進んでいる(ASCIISTARTUP)
それで、寺院も経営面を思うと、収入の多角化が必要だという話で、それに取り組んでいる事例を紹介した記事なのだが、気になるのは冒頭の一節で、「御朱印ブームが落ち着いた昨今」とあることだろう。これは、実はこの通りであると思う。
例えば、以下の記事はどうか。
・あんなにハマっていたのに…「御朱印集め」ブームから去った人たち 「コラボ御朱印はありがたみが減る」「見返しても思い出が蘇らない」(マネーポストWEB)
ちょっとこの記事の書き方は、ブームが去るときに、敢えて対象を叩き気味に論じるような論調なので、それは割り引いて考える必要もあるけれども、御朱印のブームは去ったと思う。なお、御朱印のブームには功罪があって、「罪」の方は、「納経証」という意義がほとんど顧みられなくなったことだろう。
「功」の方は、これでやっぱり、全国の寺院で、観光的要素が乏しかった場合にも、参詣してくれる人が来たことだろうと思う。
なお、仏教界でブームとなる条件には、どの寺院、どの僧侶でも取り組めるという要素が必要である。その意味で、究極のブームが、葬儀そのものである。初期投資は少ないし、誰でもどこでも出来るし、実際にニーズもあった。御朱印も同様である。
その意味で、冒頭の記事は、この記事で採り上げられたようなことが、どの寺院にも適用されるようになれば良いと思うが、一部は可能で、一部は出来ないというような「勝ち負け」が発生するのであれば、拙僧は反対だ。僧侶はおしなべて、和合僧でなくてはならない。よって、勝ち負けが発生してはならないのである。
それから、先ほどの記事の後半では、寺院の経営を多角化することで、生臭坊主などと呼ばないで欲しいという話であって、それは拙僧も同様に思う。寺院と僧侶を区別すると、結局、収入の少ない寺院では、僧侶は兼職にならざるを得ない。でも、そういう僧侶は生臭なのだろうか?だいたい、生臭坊主という表現は、昨今の人権事情からすると、ヘイトに思われる。
さておき、僧侶の収入の手段として、例えば曹洞宗では以下のような文脈が知られる。
示云、衣食の事、兼てより思ひあてがふ事なかれ。
たとひ乞食の処なりとも、失食絶煙の時、其処にして乞食せん、其人に用事云はんなんど思ひたるも、即ち物をたくはへ、邪食にて有るなり。衲子は雲のごとく定れる住処もなく、水のごとく流れゆきてよる所もなきを、僧とは云なり。直饒衣食の外に一物ももたずとも、一人の檀那をもたのみ、一類の親族をも思ひたらんは、即ち自他ともに結縛の事にて、不浄食にてあるなり。
如是不浄食等をもてやしなひもちたる身心にて、諸仏の清浄の大法を悟らん、心得んと思とも、何にもかなふまじきなり。たとへば藍にそめたる物はあをく、蘗にそめたるものは黄なるが如に、邪命食をもてそめたる身心は即ち邪命身なり。此身心をもて仏法をのぞまば、沙をおして油をもとむるがごとし。ただ時にのぞみて、ともかくも道理にかなふやうにはからふべきなり。兼て思ひたくはふるは皆たがふ事なり。能々思量すべきなり。
『正法眼蔵随聞記』
このように、道元禅師は衣食をかねてからあてがうようなことをしてはならないというのである。それは金銭や物品を貯えることになったりするからだという。また、一人大きな布施をしてくれる在家信者を獲得したとしても、不浄食だという。ただ、これは厳しすぎる印象もある。そして、後年、道元禅師も大檀那・波多野義重を得て永平寺を寄進されるなどしているので、方向転換はされたと思う。
ただし、永平寺を開かれた後でも、次のような説示がある。
総じて僧食とは、須らく四邪・五邪を離るべし。寺院の僧食、亦復た是の如し。監院住持、須らく明鑑察すべし。
いわゆる四邪とは、
一には方邪、謂わく国の使命を通ず。
二には維邪、謂わく医方卜相なり。
三には仰邪、謂わく星宿日月を仰観する術数等なり。
四には下邪、謂わく種種の五穀等を植根す。
以前の四邪食、亦た四口食と名づく。亦た四不浄食とも曰う。食すべからず。
五邪とは、
一には利養の為の故に、奇特相を現ず。
二には利養の為の故に、自らの功徳を説く。
三には卜相吉凶して、人の為に説法す。
四には高声して威を現じ、人をして畏敬せしむ。
五には説いて得る所の供養を以て人心を動ず。
上来の五邪の因縁するの所、食を得ても亦た食すべからず。
仏弟子善知識、早く五邪を離れ方に正命を為すべし。清規に云く、常住を侵損せざるや否や。言わく常住を侵損せざるは、四邪・五邪を容れずに従来する所なり。所以に四邪・五邪を食するの者、正見を得難きなり。
『永平寺知事清規』「監院」項
以上のように、道元禅師は「四邪・五邪」という正しくない収入を得る方法を提示している。ただし、これは中国天台宗の荊渓湛然『止観輔行伝弘決』巻四之一からの引用文(なお、湛然は『大智度論』巻19から引用しているため、『大智度論』からの孫引きともいえる)である。ただし、以上の内容からすると、具体的な方法というよりは、供養をしていただく僧侶の心持ちなどが問われていることが分かる。
つまり、生臭かどうかは、何で供養を得るかではなくて、その供養を得る僧侶の側の問題となり、つまりは内心の問題となる。よって、外見からの判断は極めて危険であるから、先のような記事のような新たな取り組みについて、何となく見た印象だけで批判はしないでいただきたいという話になる。だいたい、当該寺院の檀家でもなければ、批判は慎むべきだ。或いは自分のところの菩提寺であれば、批判する前に、僧侶と一緒に寺院経営を考えてくれれば良いとも思うのだ。なぜなら、僧侶は経営の専門家ではないし、専門家であってはならない。特に、僧侶に仏教の教えを説いて欲しいというのなら、僧侶にはそれだけに特化できるように、経営面は檀家の方で行うという形があっても良さそうなものだ。無論、上手く行く場合だけではないから、現状のようになっているのだろうけれども・・・
関連して、最近こういった書籍も刊行されている。合わせてお読みいただいてはどうだろうか。寺院経営はこうあるべき、という固定観念を崩してくれるだろう。
・田中洋平氏『住職たちの経営戦略』吉川弘文館・歴史文化ライブラリー 614、2025年1月
でも、江戸時代から既に、寺院も僧侶も大変だったんだな。