菩薩戒壇院〈亦た法華戒壇院と名づく〉。 別当義真 知院事光定
『当山十六院事』、『伝教大師全集』巻5、『渓嵐拾葉集』にも見える
この文章だが、一応、弘仁9年(818)に最澄と義真の連名でもって示されたものだというが、取り扱いには注意が必要なのだろう。何故ならば、この文章には以下のような「口訣」が付属されている。
口決に云わく、十六院事、悉く建立の儀無し。伝教大師の御代、十六院の寺号を置き、別当・三綱等を任ずると雖も・・・
同上
要するに、先に挙げた文章は一応、最澄が生前に定めたものだという体裁を整えるための文章である可能性が高い。それで、最澄が生前、比叡山に「大乗戒壇」を設置したいと願っていたのは、良く知られたことだと思うが、それに関連して、「菩薩戒壇院」や「法華戒壇院」という名称も定めていたという。
この内、「菩薩戒壇」は、円珍も『授菩薩戒儀』への朱書きで用いているようなので、存在した名称なのだろう。ただし、実質的に最澄没後に戒壇院の知事であった光定は「延暦寺戒壇院」の知事だと自称しているので、当初の名称はただ「戒壇院」だったのだろう。それから、後代には、「大乗戒壇院」や「一乗戒壇院」なども用いられるが、「法華戒壇」はどうも見付けられない。
そうなると、むしろ、「法華戒壇」という発想が、どの辺から来たのかな?とも思う。既に江戸時代には偽撰説もあった『天台法華宗学生式問答』では、以下の一節が知られる。
問式に曰わく、仏子に戒を授けるは、何の経の戒と為すや。
答えて曰わく、正に法華経一乗戒に依る。三如来室衣座戒、身口意誓四安楽行戒、普賢四種戒なり。次いで普賢経三師諸証同学に依り、傍らに梵網十重四十八軽戒、瓔珞十波羅夷律儀戒、慈悲喜捨摂衆生戒、八万四千法門摂善法戒に依る。
『天台法華宗学生式問答』巻4
このように、上記の一節では、正と傍という階級差を設けて、「法華経一乗戒」を正面に立てつつ、傍に「梵網十重四十八軽戒」などを配している。このような思想下であれば、確かに「法華戒壇院」という名称が出て来ても不自然ではない。しかし、最澄自身の思想から導き出せるかというと、そこには違和感がある。
よって、おそらくは「法華戒壇院」という名称は、想定されていなかったように思うわけである。
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