仏祖正伝菩薩戒作法
右大宋宝慶元年九月十八日、前住天童景徳寺堂頭和尚、道元に授くるの式是の如し。祖日侍者〈時に焼香侍者〉・宗端知客・広平侍者等、周旋して此の戒儀を行ず。
大宋宝慶中、之を伝う。
『仏祖正伝菩薩戒作法』
道元禅師が、中国で本師・天童如浄禅師から「仏祖正伝菩薩戒」を授けられたときの儀式について、その内容を記した文献の奥書に、上記一文がある。そして、これらの一節について、先行研究などを踏まえると疑問点は以下の通りである。
(1)如浄禅師について「前住」という一句がある
⇒もし、この式が行われたのが「大宋宝慶元年九月十八日」であったとすれば、まだ如浄禅師は堂頭(住職)であったはずである。よって、「前住」とはおかしいという話になる。だが、この作法書がいつ記載されたのかが問われることでもある。例えば、その式を受けた当日に記したのであればおかしいという話になるだろうが、後日に思い出して書いたか、或いは後日にまとめられた可能性もある。つまり、その書いたときに如浄禅師が「前住」だったという理解で問題が無いともいえる。
(2)この式はどういう位置付けか?
⇒現在永平寺に現存する伝・道元禅師将来『嗣書』が、宝慶3年(1227)に授けられたと書かれている関係から、この式についての位置付けも迷うところだが、拙僧つらつら鑑みるに、やはりこの式は、嗣法の儀式だったのだろうと思われる。何故ならば、儀式中にこのような一節が見えるためである。
次に受者、応に召して合掌問訊して、進みて和尚の右辺に到り、血脈に向かいて問訊すべし。或いは速礼一拝し、合掌し曲身して師資嗣法の名字を見る。
「血脈披見」と呼称される作法だが、その際、『血脈』に書かれている「師資嗣法の名字」を見ている。つまり、この儀式で貰う『血脈』には、法を嗣いできた者達の名前が書かれており、そこに、受者本人の名前が書いてあると見るべきだろう。その点からすれば、当然にこの作法は「嗣法」の儀式であったと見て良く、転じていえば、道元禅師には「宝慶元年」に授けられた「嗣法関係の文書」があったと考えるべきである。
以上、ごく簡単に申し上げたけれども、この点は決して忽せには出来ないように思う。しかし、もう一つ、この「宝慶元年」という年次に関心があり、それは、『永平広録』巻10に収録されている道元禅師の偈頌を見ると、中国の「宝慶二年」から始まっているのである。これは推測でしかないが、自ら身心脱落され、その悟境を味わった道元禅師が多くの者達と漢詩の交換を始めたのがこの年なのではないか?ということも考えられる。
無論、それを突き詰めれば前年からではないか?という指摘もあろうが、何かの理由をもって宝慶元年中は慎み、翌年から始めたのではないか?ということである。そして、宝慶三年ではないということが、実は重要だと考えている。以上、あくまでも拙僧の小見を披露しただけだが、今後もこの辺は参究を重ねていきたい。
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