当寺は、二位殿・右大臣殿の御菩提の為にし奉り、御建立候の上、始めて布薩説戒を行ぜられ候〈天〉、廻向し奉らるべき候の由、謹んで承り候し了んぬ。折節、在国し候は、勤仕せしむるべき候。且く、六波羅殿の御書、畏くも拝見し候し了んぬ。早く、寺庫に納むべき候。
今月十五日、布薩説戒し、既に勤仕せしめ候し了んぬ。恐惶謹言。
十月廿日 道玄
「贈波多野義重書状」、『曹洞宗全書』「宗源(下)」巻・268頁下段~269頁上段、訓読は拙僧
上記書状だが、江戸時代の学僧・面山瑞方禅師の編集に係る『訂補建撕記』にのみ収められているもので、その経緯などについて、面山禅師自身は以下のように述べている。
○檀那義重への返書の艸、一通文言左の如し、
〈先の書状原文〉
右の祖筆、現今永平寺の室中にあり、年号見へず、しかれども、始行布薩とあれば、寛元二年の比と察せらるゆへに、ここに補す。この二位殿とあるは、尼将軍にて、右大臣殿とは、実朝将軍なり、義重は重代鎌倉に勤仕せられ、恩顧ある故に、両霊の御菩提として、伽藍建立せらるなるべし、
『訂補建撕記図会』巻下、『曹洞宗全書』「史伝(下)」巻・120頁上~下段、カナをかなにするなど改める
側聞する限り、既に真筆の存在は無いようなので、今更に先の書状の真偽については、検討できない。ただし、『訂補建撕記』のみに収められていることなどからしても、弱冠の疑問は残る。それから、本書状の関係で、波多野義重による永平寺寺域寄進の目的は、二位殿(北条政子)及び右大臣殿(源実朝)に対するものだという話が出ていたようだが、これもどうだろうか。
実際のところ、『建撕記』自体は、永平寺14世・建撕禅師の編とされるが、15世紀の成立となる。ましてや、面山禅師の『訂補建撕記』は18世紀に入ってからのものとなり、道元禅師伝としては、中古及び新しい部類となる。最古の伝記としては、『永平寺三祖行業記』『三大尊行状記』などを参照すべきであるが、それら及び『建撕記』では、義重による永平寺建立の意図は、以下の通りである。
・後に波多野雲州太守義重、固請するに依りて、移りて越州に下る。寛元二年甲辰七月、吉祥山永平寺を草創す。
『三大尊行状記』「道元禅師章」、『曹洞宗全書』「史伝(上)」巻・73頁下段、訓読は拙僧
・爰に波多野雲州太守藤原義重、白されけるは、越前吉田郡の内、深山に安閑の古寺候、某甲知行の内なり、御下向ありて度生説法あらば、一国の運、また当家の幸なるべしと言上す、
『建撕記』下巻、『曹洞宗全書』「史伝(下)」巻・23頁上~下段、カナをかなにするなど改める
まずは、この段階で既に幾つかの書き入れがされていることが分かるだろう。つまり、『三大尊行状記』の段階では、義重の意志は記されていないのである。おそらくはそれが正しくて、よく伝わっていなかったのだろう。道元禅師の語録『永平広録』(全10巻)を見ても、この辺は良く分からない。
一方で、『建撕記』を見ると、「一国の運」「当家の幸」という義重の意志が記される。実際、義重は越前の太守(守護)では無いことから、「一国の運」の意味するところが分からないが、やはり越前国全体を慮ったものか。その点、「当家の幸」はすぐに理解出来よう。そして、冒頭で見た文書の「二位殿」「右大臣殿」の菩提を弔うというのは如何か。無論、「御家人」という立場からすれば、将軍家に対しての「御家人」であるから、義重がその菩提を弔うことを意図してもおかしくはない。
それから、「布薩説戒」についてだが、道元禅師が1月に2回の布薩(略布薩相当か)を行っていたことは、『正法眼蔵随聞記』からも知られ、しかも、後代の我々は「布薩説戒」というと、持戒の是非を問う真面目な儀式というイメージが強いかもしれないが、当時はもう少し俗世間への功徳の廻向も意図されていたはずだ。
例えば、中国唐代の天台宗・明曠『天台菩薩戒疏』下巻を見ると、『梵網経』「第三十七軽戒」への註釈に於いて「布薩法」が示されているが、その際の「啓白文」には、「唯だ願くは威光自在にして皇帝の聖化無窮、大子・諸王の福延万葉、師僧・父母、常に安楽を保ち、見聞・隨喜して宿障雲消し、悪道・三途の災殃、自ら殄せんことを」とある。要するに、世俗の諸存在の善報を願っているのであり、その点からすれば、既に亡くなった方の菩提を弔うために「布薩説戒」するのは、当時は一般的なことであった。
『元亨釈書』巻22「資治表三・勝宝八年」の記載では、孝謙天皇が父・聖武上皇崩御に際して、東大寺を初めとして全国の諸寺に安居・布薩をさせ、「布薩田」を賜ったというが、その意図は「上皇に薦す」とあって、供養のためなのであった。よって、先の書状に於いて、供養のための「布薩説戒」があったというのは、あながちウソではないといえる。
それから、日付の件だが、面山禅師は先の書状に見える「十月廿日」を「寛元二年(1244)」のこととしている。この辺、道元禅師の伝記的事項を抑え直しておきたい。
1243年閏7月 道元禅師が越前に移動完了
1244年7月18日 道元禅師や会下の僧が大仏寺に入寺
1244年10月15日 先の書状の布薩説戒(?)
1245年4月15日 大仏寺での夏安居開始
以上である。正直なところ、まだまだ工事が続き、翌年の夏安居を控えた状況で、見切り発車的に「布薩説戒」を行うだろうか?この辺、大仏寺(後の永平寺)の伽藍建立の状況も重ねて見てみると、更に何か分かるかもしれない。ただし、その様子は『建撕記』以降の記述なので、正確さという点は考慮しなくてはならない。
1244年2月19日 法堂の整地開始
1244年4月22日 法堂の上棟
1244年7月18日 大仏寺へ移動
1244年9月1日 法堂の完成
1244年12月3日 僧堂の上棟
以上である。このように、10月15日についての記載は無いが、大仏寺全体としては工事が続いている状況であった。そこで、落成式代わりの開堂説法はあったとしても、布薩が行われただろうか。良く分からない。
道元禅師の「布薩」といえば、有名な伝承が記録されている。
寛元五〈丁未〉歳、正月十五日、布薩の時、師説戒し玉ふに、五色の彩雲、方丈の正面の障子に立て、半時ばかり在り。聴聞の道俗あまた奉見なり。其中に河南庄、中郷より參詣せし人、この子細を後証の為とて起証文を以て申置く。其文に云く、「志比方丈、不思議日記の事」〈以下略〉
『建撕記』下巻、『曹洞宗全書』「史伝(下)」巻・26頁下段~27頁上段
これは、1247年の出来事である。懐奘禅師に係る文書が残されているため、拝しておきたい。道元禅師は、明治時代以降の近代仏教学でいわれたような合理主義的な人では無かったことは明らかなので、こういう出来事があったとしてもおかしくはない。ただし、これも起きた日付などからすれば、永平寺の運営が落ち着いた状況であったことは明らかで、やはりそういう年次での「十月十五日」だったのではなかろうか。
ということで、真偽不明の書状から、簡単な考察を回らしてみた。実は本題は、当時の布薩のあり方を知ることだったので、その点だけは理解出来たように思う。
#仏教