そこで今日の記事だが、日付に因んで採り上げておきたい。
三月旦の上堂。
大衆を召して云く、
時有りて常に人を催す、人豈に虚しく時を度らんや。
或いは水中に亡躯たり、或いは火裡に失命す。
刃刀で腸を割り、箭鋒骨を透る、
病患は老少を択ばず、閻王寧ろ貴賤を問う。
剛質微繊の罪犯、供に以て鉄牀洋銅となる。
宿生善種に依りて箇の人身を得る、
般若の良因に答えて祖師の門下に投ず。
今日若し空しく過さば、幾劫に又た相逢せん。
寒気已に去るも、熱時未だ来たらず。
弁道の時最も宜し、空しく光陰を度ること莫れ。
『義雲和尚語録』
上記一節は、大本山永平寺5世・義雲禅師(1253~1333)の語録から引用した。「三月旦」とあるため、3月1日の上堂であることが理解出来る。なお、厳密に見ていけば、何年頃のかも分かるのかもしれないが、この記事の執筆段階では不明。ただし、4世・義演禅師の御遷化を受けて、正和3年(1314)の12月に永平寺に入られたとされる義雲禅師による永平寺での上堂であるため、それ以降であることは間違いない。
それで、先ほども、3月1日には「閉炉の上堂」と言うことで、前年の11月に出していた「炉(ストーブ)」の口を閉じて、使わなくなる上堂を行っていたことを述べたが、上記の一節は「閉炉」では無い。しかし、義雲禅師は別の歳には「閉炉」もされているので、行わなかったわけではない。
上記内容だが、一読いただければ分かるように、「光陰を虚しく渡るべきではない(時間を無駄に使うな)」ということを踏まえて、今ここで行う修行の大切さを説いたものである。時間の大切さについては、人がどこで死ぬか分からないことを、水死、焼死、或いは、切腹での死、矢傷の死、病気などを挙げている。時代の影響も出て、かなり具体的だ。しかし、どのような死に方をしても、生前に為した行いとその結果が、我々に強く付き従い、閻魔王は善悪を判断するぞ、と述べているのである。とはいえ、現代的な感覚だと、六道輪廻を実体化しており、人権問題になりかねないとはいえる。
ただ、問題は、閻魔王への気に入られ方が示されているので、それを実践していただければということになる。
まず、これまでの人生の中で行った善行があるからこそ、今我々は人間としての人生を生きている。更には、仏陀の智慧が良い原因となって、祖師門下に参じて学びが出来ている。そのような良い機会を得ている今日を虚しく過ごしてしまえば、今後、どのような場面で、良いきっかけと会うことが出来ようか。
今日の様子からは、寒気は既に去ったが、暖気が来ているわけでもない。しかし、弁道の時としては最も良い。虚しく光陰を渡ってはならないぞ、と示された。この辺に、季節的な春を迎えつつあった永平寺の様子を見ることが出来よう。
永平寺御開山の道元禅師も、「当山の兄弟、直に須らく専一に坐禅して、虚しく光陰を度ること莫れ。人命無常、更に何れの時をか待たん。祈祷祈祷」(『永平広録』巻4-319上堂)のように示されたことがある。義雲禅師の教えは、御開山以来の伝統に則ったものであり、現代の我々も全く同一に頂戴しなければならないものだといえよう。
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