建長四年、今夏之比より微疾まします。最後之教誨は正法眼蔵八大人覚の巻也。此教誨は仏の遺教経をもととして遺言也と見ゑたり。
『建撕記』(『曹洞宗全書』「史伝(下)」巻所収本を参照)を参照しつつ、カナをかなに改める。以下、同じ。
これは、『建撕記』でのコメントであるため、普通に考えれば永平寺14世・建撕禅師のお言葉かと思う。なお、建撕禅師がご参考になさった見解は、「八大人覚」巻の奥書に、懐奘禅師が記された事柄であろうと思われる。
二代奘和尚云、右本は、先師開山和尚最後の御病中の御草也。仰者、以前所撰仮名正法眼蔵等皆書改、并新草具都廬壹百巻可撰之云々。既に御草案始め此巻当第十二也。此後御病漸漸重増するに依て御草案等之事即止む也。所以此御草等、先師最後之教敕也。我等不幸而不拝見一百巻之御草。最所恨也。若奉恋慕先師人は、必書写此十二巻而可護持之。是釈尊最後之教敕、且は先師最後之遺教也。
同上
懐奘禅師による奥書には、最晩年の道元禅師が『正法眼蔵』を巡って、どのようなお考えをお持ちになっていたかを記録する、大変に貴重な内容なのだが、その最後に「是釈尊最後之教敕、且は先師最後之遺教也」とあって、釈尊の遺教でもあるし、道元禅師の遺言であることを見て取れる。
ところで、拙僧は以上のことを『正法眼蔵』勉強会などでお話しする時、いつも涙をこらえながら(場合によっては実際に泣きながら、ついでに言うなら今、この文章を作っている時にも)申し上げるのだが、『建撕記』を見ると、実は当時(15世紀)からそうだったことが記されている。
昔し老僧達は此巻を拝見せらるる時は感涙をもよをされ、住持も是を談ぜらるる時は、声をあげて啼き給う。此巻を捧て云く、是こそ開山和尚の御遺言よ、此旨をまぼらば宗風永扇、門派流通、退転すべからずと云。
開山大和尚は五十四歳にして御早逝也。その遺言ある声に御早逝ををしみ奉て、なげき給う也。
此八つの名目ばかりを記す。
同上
以前から、「八大人覚」巻を読む時には、感涙を催したようで、更には住持が提唱を行う場合には、声を挙げて泣いたという。それほどに、懐奘禅師の言葉は重く、悲しさと無念さがあるのである。拙僧は大変に有り難いことに、他の方を前に『正法眼蔵』をお話しする機会を度々得ているが、最初の一巻は「八大人覚」巻であった。しかし、この巻を読んだからこそ、他の巻も正しく学ばねばならないと想うのである。
そういえば、上記一節には「此八つの名目ばかりを記す」とあるが、『建撕記』では「八大人覚」の各項目を、以下のように記している。
一者小欲、この意は、名利を求ること莫れ、無欲ならば無愁して、諸の功徳を自ら生ずるなり。
二者知足、この意は、世間の苦悩をのがれんと思ふ、富貴の人も、其うまれつきまで、貧人も、生れつきまで、我より下の貧をあわれむべし、上の望むことなかれ、ただ人人、我身の上を思へば、無不足なり、
三者楽寂静、これは人間を捨て山林に深く閑居すれば、諸天にも諸人にも、うやまひをもんぜらるるなり、
四者勤精進、これ出家たる人、勤行して、よくをこたらざれば、求むること、皆満足するなり、
五者不忘念、善知識にならんと思はば、一念もさしをく事なかれ、其時は煩悩も自不来なり、
六者修禅定、これは、心を静に収て、坐禅するなり、此時自ら世間の、無常の道理を得るなり、
七者修智慧、もし有智慧人はよろづの物を貪ることなし、此理をよく察して失ふことなかれとなり、教の如くすれば、如暗得灯なり、
八者不戲論、この意は、なにの辺にも、たわむれ、論ずることなかれ、戯論は心乱る間、ただ死すべきことを思へとなり。
此八大人覚の理を不知は、仏弟子にはあらずと、ををせらるると云云。
同上
これは、実際の本文をそのまま訓読したのでは無く、『建撕記』での註記(コメント)に相当すると判断して良い。「知足」の内容のみ、人権問題を含むように思うのだが、これは時代的限界ということもある。よって、注意喚起をして、後は内容を確認したいのだが、上記内容自体は、決して難しくないため、読んでいただければと思う。なお、『建撕記』には、「志し親切の輩は、本録を委く可拝見と云々」とあり、実際の本文を読んで欲しいと書かれているため、それに倣うべきであろう。なお、上記一節について、個人的には「修禅定」を「心を静に収て、坐禅するなり、此時自ら世間の、無常の道理を得るなり」とされていることに注目したい。つまり、坐禅と結びつけ、更に「観無常」とも繋げている。曹洞宗の中で、無常を基盤に坐禅を勧める事例は、瑩山禅師『洞谷開山瑩山和尚之法語』などにも見られるが、この辺は今後も参究すべきだと思う。
さて、何故1月6日に「八大人覚」巻を学ぶかといえば、以下の一節に由来する。
正本の奧書云、建長四年之暮、及建長五年之正月六日書于永平寺
同上
こちらは道元禅師による奥書だとされるが、建長5年8月28日に御遷化される道元禅師は、最後の一巻として同年1月6日に「八大人覚」巻を著したとされる。よって、今日という日に学ぶのである。
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