長沙いはく、尽十方界、真実人体。尽十方界、自己光明裏。
かくのごとくの道取、いまの大宋国の諸方の長老等、およそ参学すべき道理と、なほしらず、いはんや参学せんや。もし挙しきたりしかば、ただ赤面、無言するのみなり。
『正法眼蔵』「諸法実相」巻
これは、道元禅師が、中国禅宗の長沙景岑禅師の言葉を採り上げたところである。長沙は、「尽十方界、真実人体」といい、「尽十方界、自己光明裏」と道取された。前者は、まさに我々の生きるこの世界そのものが、如来の身体、法身そのものだという意味である。後者は、我々の生きるこの世界そのものが、我が光明の内にあるということだ。この時の「自己」とは、未発菩提心の慮知念覚を指しているわけでは無い。
自己とは、仏法の自己であり、仏身心の光明である。仏身心の光明は、無辺際であるため、具象的世界はその普遍的な光明の内にあるのは当然である。しかし、この当然さであるが、それが当然であるが故に、という高尚な理由であればまだ良いが、実際のところは、参学すべきところを参学せず、無関心であるに過ぎない。そしてこの無関心は、以下のような批判を呼び起こす。
長沙道の尽十方界、是自己光明の道取を、審細に参学すべきなり。
「光明」巻
道元禅師の仰る参学は、「審細」でなければならないという。「審細」であるということは、つまびらかで、細やかに、ということである。それは、従来参学していないところを学び、学んだと思い込んでいるところを再度採り上げることである。そして、先の「諸法実相」巻を読めば、道元禅師はそれを自ら他の禅者に問い質したということになる。審細なる学びを促したといえる。
その結果が、「ただ赤面、無言するのみなり」である。要するに、自ら問うべきを問うてこなかったため、まごつき、ただ黙ってしまったのだ。まさに、赤面するのみである。我々がここから肝に銘ずるべきは、とにかく、自らの見解の組み替え、いわゆる知の更新に対し、常に前向きであらねばならないということだ。そして、それを特定の知の体系を打ち立てて独りごちるような状況とは全く違う。知の組み替えは、方便力の実践に繋がる。よって、知の獲得と、方便への展開とが同時に行われるように公案を読み、学ぶこと、それが宗乗の本懐といえるのだ。
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