15〔40〕 真の悔恨は罰を求め、それを愛するが、自由な贖宥は罰を緩和し、罰を憎ませるか、少なくとも(罰を憎む)機会を与えるのみである。
訳は当方
まず、自らの罪の悔恨とは、神に対して行われるものであるから、そうなると当然罰が与えられるべきだという考えになる。それが、上記一節の前半部分の意図である。ところが、『贖宥状』で、罰を緩和していくと、一時的にはそれで、何らかのプレッシャーから逃れることにはなるのかもしれないが、一方で、自分自身を省みたり、罪に向き合うわけではないから、結果として罰のみを避けようとする。それが、後半部分の意図である。
上記内容などは、神学的見解では無く、人間本来の心理的反応などを考察したものである。
【参考文献】
・Works of Martin Luther:Adolph Spaeth, L.D. Reed, Henry Eyster Jacobs, et Al., Trans. & Eds.(Philadelphia: A. J. Holman Company, 1915), Vol.1, pp. 29-38
・マルティン・ルター著/深井智朗氏訳『宗教改革三大文書 付「九五箇条の提題」』講談社学術文庫・2017年
・L.チヴィスカ氏編『カトリック教会法典 羅和対訳』有斐閣・1962年
・菅原裕二氏著『教会法で知るカトリック・ライフ Q&A40』ドン・ボスコ新書・2014年
・ルイージ・サバレーゼ氏著/田中昇氏訳『解説・教会法―信仰を豊かに生きるために』フリープレス・2018年
・田中昇氏訳編『教会法から見直すカトリック生活』教友社・2019年
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