つらつら日暮らし

今日は勤労感謝の日(令和6年度版)

今日は、勤労感謝の日である。それで、この日は元々、新嘗祭だったのだが、先の戦争に敗れた影響で、この日は労働者に対し、その一年の勤労を感謝する日となった。ところで、この新嘗祭について、こんな記述を見付けた。

  新嘗祭
 十一月二十三日に行はせらるゝ新嘗祭は、皇孫尊が降臨あらせられたる時に縁由し、神武天皇元年に行はせ給ひたるより歴朝継続して変易あらせらるゝ事なく神嘗祭と共に宮中の祭儀式多く有るが中に最も厳儀と称し奉る御祭典にして、御親祭の御準備の鄭重なるは申すに及ばず供御の新穀を民間有志者より献納する特例の設けられたるあり。
    勝山忠三編『祭儀類典』神職合議所・明治39年、42頁


・・・この記述によれば、新嘗祭は神武天皇の時から行われていると明記されている。だが、実際には皇極天皇(594~661年、皇極天皇としての在位:642~645年、重祚した斉明天皇としての在位:655~661年)が始めたものであるらしい。よって、この記述はまぁ、神道によくありがちな、伝統を強引に「神代の時代」にまで遡らせようとする過剰な記述であるといえる。

無論、「新嘗祭」ということで無ければ、日本は農業国であり、五穀の実りを神に捧げるというような行為は、古くから行われていたようだから、その意味では、なるほど皇孫尊や神武天皇という話になっても仕方ない。だが、それはむしろ、そういうイデオロギーとしての神道成立以前からの風習だったはずで、さも神道に特有のように語り直すこと自体が、過剰な記述であるように思う。

一年の間で実った作物をこの我々人間にもたらした神に感謝し、捧げることで、また次の実りも期待する、それがここでいう現世利益的な祈りの実際の様子である。

さて、1つ思うのは、「感謝」というあり方である。元々中国語では「謝」一文字で「ありがとう」の意味を持つ。よって、「感謝」とは「ありがたいと感ずる」という意味になる。今日という日についても、「お互いに感謝する」とされている。この辺の勤労観について、どうも大乗仏教的だと思ってしまうのは拙僧だけだろうか。

勤労のモチベーションをどこから求めるかは、人それぞれである。自分の利益のため、高い給料のため、良い生活のため、そう考える人もいるだろう。だが、一方で、社会のため、会社のため(社畜とか言われそう)、家族のためと、必ず“自分以外の誰か”を思って勤労する人もいるだろう。

それで、この「新嘗祭」を「勤労感謝の日」に変えたことで、我々の労働は自ずと、自分1人のためではなくなってしまった感じがする。お互いにとはあるからには、社会の中に於ける位置付けを自ずと求め、その繋がりの中で、お互いの労働を感謝するようになる。そうすると、「自分のため」という言葉は出しにくくなる・・・まぁ、これは性格の悪い言い方かもしれないが、これは同時に労働によって得た利益をどう用いるか、という話にもなっていく気がする。

元々、「新嘗祭」の時には、人を介在させずに、豊穣の神を讃えていた。だが、「勤労感謝の日」となると、労働者がお互いに感謝する日となるから、神は除外され、人が中心となる。しかも、自分中心では無いと言うことである。地球の動きを例にとって考えてみると、「新嘗祭」の考えに基づき元々神中心ということは、或る種の「地動説」である。だが、「勤労感謝の日」の考えに基づくと、お互いが感謝されることになるから、「天も地も動いている」とかいう話になりそうである。

・・・何を言っているのか良く分からなくなってきたので、今日はお互いの勤労に感謝しようぜ、という話だけして終わっとく。

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