其金襴の袈裟といふは、正しく七仏伝持の袈裟なり。
<彼の袈裟に三つの説あり。
一つは如来胎内より持すと。
一つは浄居天より奉ると。
一つは猟師これを奉ると。
又、外に数品の仏袈裟あり。
達磨大師より曹渓所伝の袈裟は、青黒色にて屈眴布なり。唐土に到て青き裏を打てり。今六祖塔頭に蔵めて国の重宝と為す。是れ智論に謂ゆる如来麁布の僧伽黎を著くと、是なり。
彼の金襴は金氈なり。経に曰く、仏の姨母、手づから自ら金氈の袈裟を紡緝して、持して仏に上ると、是なり。
是れ多品中の一二のみ。
其霊驗の如きは、数多の因縁、経書に有り。
昔婆舎斯多尊者、悪王の難に遭て、火中に五色の光明を放つ。火滅して後、仏袈裟安然たり。仏衣なることを信ず。>
『伝光録』「第二・阿難尊者」章、<>は註記
まず、引用文冒頭でいわれているのは、禅宗西天第二祖の阿難尊者と、西天初祖である摩訶迦葉尊者の問答に由来している。いわゆる「教外別伝」に関する問答だが、こういう一節がある。
第二祖阿難陀尊者、迦葉尊者に問うて曰く、「師兄、世尊、金襴の袈裟を伝える外、別に箇の什麼をか伝うるや」。
迦葉、阿難と召す。
阿難応諾す。
迦葉曰く、「門前の刹竿を倒却著せよ」。
阿難大悟す。
同上
阿難尊者の発問に見える「箇の什麼をか」が、「問処の道得」である。そして、その「什麼(何)」としか表現できない、それ(恁麼)の働きを、意識の分別レベルで捉えないこと、それが、「阿難応諾」である。この意識せずに行われた「応諾」が、恁麼の働きである。この部分は、晩年の瑩山禅師は重視されて、次のように主題化された。
先日我公を呼ぶ、公即いらふ。擬々なく滞なかりき、必しも、主のしるにもよらず、道の私しなき事、疑ふべきにあらず。
『洞谷開山瑩山和尚之法語』
瑩山禅師はここに、自らの意図や分別が無い(私しなき)ことを強調しておられる。そして、そのような意図や分別を離れていても活動する「恁麼」をこそ、正しく信じていくべきだとしたのである。
さて、本来であればこの「恁麼」に相当するのは、「正法眼蔵涅槃妙心」であるのだが、史伝上、迦葉尊者とともに経蔵の編集を行った阿難尊者としては、ここで聞いているのは、「正法眼蔵」なのか?「経蔵」なのか?で迷うところではある。また、自らも経蔵は知っていたということは、やはり、経蔵の他に御袈裟、他に何かが?と問うことも考えられる。
しかし、ここでは御袈裟そのものが、経蔵以外の「恁麼」に属すると考えるべきであり、だからこそ、その御袈裟とは何か?という問題になる。よって、瑩山禅師の御袈裟の註記が重視される。
瑩山禅師が金襴衣の提唱をされた理由は、この御袈裟の実在性を確実にするためである。分かりやすくいえば、御袈裟の去来を問うたのである。そして、誰から奉られた御袈裟が、迦葉尊者へと渡ったのかを、仏典を紐解いて考察された。その中には、達磨大師の所伝の御袈裟についても指摘されている。もちろん、達磨大師のそれは、迦葉尊者のものとは違っている。しかし、それは、「仏衣」たる御袈裟の実在について、世代を超えて授受された様子を示すためである。
結果、瑩山禅師は、迦葉尊者に渡ったのは、釈尊の継母が奉ったものであると断定した。そして、御袈裟の功徳については、無数にあるという。この辺は、道元禅師の「袈裟功徳」巻を受けての教えでもある。我々自身は、祖師方のお示しにより、御袈裟をただの布や物として考えることは許されていない。やはり、御袈裟は仏衣である。
さて、今日、このような記事をアップするに到ったのは、2月9日が「服の日」だからである。御袈裟とは解脱服ともいう。煩悩を破り、正覚を得させてくれるという大功徳を持つのである。
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