主として大乗仏教で広く用いられる「三世十方」という言葉がある。意味としては、過去・現在・未来の三世、そして、上下・八方を総じて十方となる語句を組み合わせ、あらゆる時間・空間を意味する言葉である。この言葉が用いられる背景としては、結局は存在する全ての事象に、特定の「法」が適用されることを示すものである。例えば、こういう一文だと理解しやすいのでは無かろうか。
しかあれども、最後身の菩薩、すでにいまし道場に坐し、成道せんとするとき、まづ袈裟を洗浣し、つぎに身心を澡浴す。これ三世十方の諸仏の威儀なり。最後身の菩薩と余類と、諸事みなおなじからず。
『正法眼蔵』「洗面」巻
この文意は、最後身の菩薩というのは、それまでに長い間の輪廻を繰り返し、積もり積もった善行の功徳によって、この人生に於いて必ず成仏するとされる菩薩を指す。そして、その菩薩が、いよいよ成道せんと、道場に坐る際には、まず今朝を洗い、身心を洗うという。
これは、とりあえずは釈尊の行いについて述べておられることといえる。だが、道元禅師は合わせて、「三世十方の諸仏の威儀なり」としている。「威儀」というのは、今時にはただの服装という意味で用いられるが、同時に、仏に具わるべき作法、特に、他者を敬服させるに値する作法を「威儀」とはいう。「威」とは「おどし」ということだが、これはまさに他者を自然と自分に敬服させる「力」を含む。つまり、この成道道場への進退は、三世十方という、あらゆる諸仏が同じく行うべき威儀だということだ。
このように、特定の仏だけではなくて、全ての仏に当てはまるとき「三世十方」という用語は活用される。
おほよそ袈裟は、三世十方の諸仏正伝しきたれること、いまだ断絶せず。十方三世の諸仏菩薩・声聞縁覚、おなじく護持しきたれるところなり。
『正法眼蔵』「袈裟功徳」巻
御袈裟についての説示である。道元禅師は、御袈裟とはあらゆる諸仏が正伝しており、未だに断絶することはないとしている。確かに、「三世」ということは、未来まで含めてのことであるから、未だこの世界に至らない時間までをも含め、御袈裟は諸仏が正伝しているのである。然るに、道元禅師に於いて「十方」は、比較的理解しやすい文脈で示されている。それが『正法眼蔵』「十方」巻である。例えば、このようにある。
釈迦牟尼仏、告大衆言、十方仏土中、唯有一乗法。
釈迦牟尼仏、告大衆言、唯我知是相、十方仏亦然。
長沙景岑禅師、告大衆言、尽十方界、是沙門壱隻眼。
尽十方界、是自己光明。
尽十方界、在自己光明裏。
尽十方界、無一人不自己。
玄沙院宗一大師云、尽十方界、是一顆明珠。
「十方」巻から適宜引用
これらは、道元禅師が「十方」に関する仏祖の言葉として引用された文脈である。これらを経て、十方そのものが仏法のはたらきそのものだと指摘されている。いわば、尽十方界真実人体の発露である。基本的に、その観点を外れなければ、これらの文章の理解は、間違わない。
だが、「三世」については、かなり理解が難しい。例えば、以下のような文脈はどうか?
未生悪令不生といふは、悪の称、かならずしもさだまれる形段なし。ただ、地にしたがひ、界によりて立称しきたれり。しかあれども、未生をして不生ならしむるを仏法と称し、正伝しきたれり。外道の解には、これ未萌我を根本とせり、といふ。仏法には、かくのごとくなるべからず。しばらく問取すべし、悪未生のとき、いづれのところにかある。もし未来にありといはば、ながくこれ断滅見の外道なり。もし未来きたりて現在となるといはば、仏法の談にあらず。三世、混乱しぬべし。三世、混乱せば、諸法、混乱すべし。諸法、混乱せば、実相、混乱すべし。実相、混乱せば、唯仏与仏、混乱すべし。かるがゆえに、未来はのちに現在となる、といはざるなり。
「三十七品菩提分法」巻
これは、四正断の一である未生悪令不生についての指摘なのだが、道元禅師は三世について、悪が未だ(現在で)生じていないとき、悪は未来にあるとすると、「もし未来にありといはば、ながくこれ断滅見の外道なり。もし未来きたりて現在となるといはば、仏法の談にあらず。三世、混乱しぬべし。三世、混乱せば、諸法、混乱すべし」とされる。この理由だが、もし未来が来て、現在になるとなると、その時、未来は現在となり、未来ではなくなってしまう。そうなると、未来が消滅して現在となるため、未来が消え、結果的に「断滅見の外道」であるという。つまり、未来は永久に未来なのであって、現在に無い悪が、未来に於いて有るというような相互関係として、三世があるわけではないといえる。よって、三世は混乱させてはならないという。過去世は過去世、現在世は現在世、未来世は未来世として各々独立にあるといえる。しかし、三世である。
また過去生已滅・未来生未至・現在生無住とらいふ。過去かならずしも已滅にあらず、未来かならずしも未至にあらず、現在かならずしも無住にあらず、無住・未至・已滅等を過未現と学すといふとも、未至のすなはち過現未なる道理、かならず道取すべし。
「授記」巻
こちらもまた、三世について過去・現在・未来のそれぞれの特徴であるはずの「已滅」「無住」「未至」について、それらを「不必」にて否定しつつ、「未至」をもって三世としている。これは、「未だ至らず」という未限定的状態をもって三世と定めており、そこから仏法としての三世を証そうとしておられるといえる。
よって、「十方」については、「真実人体」をもって把握すれば良いが、「三世」については、単純な理解を許してはくれない。その難しさは重々承知されるべきであると考える。ただ、これらの三世にも十方にも、諸仏は遍満しているのであって、そのことまでも疑う必要は無い。いや、だからこそ、未来が現在になるという発想について、三世の混乱、断滅見だとしたのであろう。
ということで、やたらと難しい話になったけれども、今日は3月10日、折角なので、三世十方の諸仏を鑽仰しておきたい。十方三世一切仏……合掌
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