つらつら日暮らし

持戒した結果について

持戒した結果について、漢訳仏典では「戒果」と表現する。少し見ておきたい。

  戒果
 優婆塞戒経に云わく、戒果に二有り。
 一に天楽、
 二に菩提楽なり。
 智者、応に菩提を求め、天楽を求むべからず。
○正法念処経に云わく、若しくは持戒心もて、天楽を念う者は、斯の人、浄戒を汚すこと、雑毒水の如し。天楽を以て無常寿尽きれば、必ず退き、当に大苦を受くべし。是の故に当に涅槃を求むべし。
    『釈氏要覧』巻上


上記内容から、「天楽」と「菩提楽(或いは涅槃楽)」とを対比させて論じていることは明らかだが、智者については「菩提楽」を求めるように促している。ここから、天楽については、やはり在家者向けということになるのだろうか。とはいえ、『優婆塞戒経』でも、「天楽」を求めることを批判していることが気になる。

そこで、上記に引用された一節に続くのが「若し受戒し已りて、心に悔恨を生じ、人天楽を求め、多く諸もろ放逸にして、憐愍を生ぜず、是れを汚戒と名づく」(『優婆塞戒経』巻6「尸波羅蜜品第二十三」)であり、やはり、人天楽を求めることを、何らか(おそらくは菩提心)の退転だとしている。

そのため、「汚戒」になるという。この「汚戒」というのは、本来浄らかであるべき戒(或いは持戒)を汚すことをいう。

若しくは貧窮を畏れ、若しくは恐怖の為に、若しくは失財の為に、若しくは作役を畏れ、若しくは身命の為に、若しくは利養の為に、若しくは愛心の為に、而も禁戒を受く、既に受戒し已りて、心に疑惑を生ずれば、是れを汚戒と名づく。
    同上


ここは、「汚戒」となる条件を示しているのだが、具体的には受戒(或いは出家)する際の動機の問題が挙げられている。つまり、経済的な困窮などを恐れたり、或いは自分の名利のために禁戒を受けて、仏教徒になったり、出家者になったりすると、受戒し終わってから心に疑惑が生じ、ますます迷いを深めることがある、これを汚戒という。

この辺を簡単に総括すると、菩提とは、ただ菩提のために求められるべきであり、そこに、様々な人間側の希望などを容れると、汚戒に堕落するのである。汚戒への堕落は、復活が容易ではない。何故ならば、スタート地点にこそ問題があるわけで、途中での方向転換が難しいからである。

実際、「天楽」というのは、世俗的には最高地点の価値である。だが、所詮は世俗に留まり、出世間としての仏道に至らない。上記の一節などは、そのことを問題視しているのである。ここまでいうと、世俗の価値の何が悪いのか?という意見もあると思う。それはそれで、その価値に重きを置きたい人は、それで良いと思う。ただ、それだと仏道に至らない、という話を、仏教側でしているだけなのである。

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