つらつら日暮らし

近世曹洞宗教団の本寺による末寺の住職選定への優越性について

近世江戸時代の曹洞宗教団は、徳川幕府の宗教政策の中で、いわゆる「本末関係」を徹底することとなった。「本末関係」の徹底はは、曹洞宗に限ったことではないが、とにかく、江戸時代には各宗派の本山(総本山・大本山等)が定められ、その下に末派寺院を組み込むという上下関係が常態化したのであった。

もちろん、それは一朝一夕に確立されたわけではなく、幕府の法度を見ていくと、繰り返し本寺を尊重する見解を発していることから、全国では一悶着では済まないような闘諍があったことを想起させるのである。そこで、今回は関連する法度の条文を見ておきたい。なお、典拠は文部省宗教局編『宗教制度調査資料』巻16「江戸時代宗教法令集」(大正14年)から引くこととしたい。本書は横関了胤先生『江戸時代洞門政要』でも繰り返し引用されているため、その見解との交通も思って引用した。おそらく、現代であればもう少し調った資料もあると思う。本文では断らないが、訓読は拙僧、文字なども見易く改めている。法度の呼称や、発布された年月日は『宗教制度調査資料』に依拠する。

一 本寺の儀を請けざる濫住の寺、停止のこと。
    「曹洞宗覚」慶長13年(1608)8月8日


まずは、以上である。収録されている中では、これが一番古い。以下、本文を読み解くが、拙僧の私見で読み解くので、誤解等多々あると思う。全く自信は無いので、気になる人はメール等でこっそりと教えていただきたい。そこで、要するに、本寺の儀(本寺からの言いつけ等)を請けないような住職(濫住)は、その資格を停止するとしている。のっけから厳しいな。

一 末寺と為て本寺の掟に背く事。
    「曹洞宗法度(総寧寺へ)」慶長17年(1612)10月朔日


これはとても分かりやすい。要するに本寺が定めた掟に、末寺は逆らってはダメだよ、ということである。

一 諸末寺、本寺の法度に違背すべからざるの事。
    「曹洞宗法度(大中寺へ)」慶長20年(1615)6月28日


これも、掟と法度という言い換えはあるものの、先に見た総寧寺に発せられた「曹洞宗法度」と同じことを述べている。

一 日本曹洞下の末派、先規の如く当寺の家訓を守るべき事。
    「永平寺諸法度」元和元年(1615)7月


徳川幕府が、いわゆる両大本山制を定めた時の法度である。なお、両大本山となった永平寺・總持寺、それぞれ別個の法度が発出されている。こちらは永平寺で、実はこの条文の1つ前に、道元禅師の忌日には越前一国の末寺が出仕して、供養すべきことが挙げられているが、それは省略した。なお、「永平寺諸法度」で指摘する「先規の如く」とあるが、この「先規」については解釈が難しい。後に、永平寺が總持寺や大乘寺などに対して、様々な分野(特に行法や衣体)で裁判を起こす時には、この「先規」を楯にしたのだが、拙僧にはどの辺の「先規」を指しているのか、全く分かっていない。というか、あったのだろうか?

また、おそらくは同じ日に発出されたと思われる「總持寺諸法度」には、この一条が無いのである。それが、結局は永平寺が江戸時代末期に、総本山化を目指す一因にもなった印象があるのだが、おそらくは徳川幕府も両大本山にするといっても、実質的には「總持寺系」寺院が圧倒的状況だったことを知っていたはずで、これは、両大本山の関係を流動的にし、曹洞宗内に混乱をもたらそうとした宗教政策だった可能性が高いわけである。それこそ、浄土真宗の本願寺系の分裂を思えば理解しやすいと思う。

一 諸末寺、本寺の法度に違背すべからざるの事。
    「曹洞宗法度(大洞院へ)」元和6年(1620)1月25日


これは、東海地方の有力寺院である大洞院に発せられたものだが、先に挙げた大中寺への法度と同じである。

一 後住を相定めし時、其の小本寺・関東三箇寺、能々僉議せしめ、相応の僧に申付べき事。
    「曹洞宗諸法度(三箇寺へ)」寛永19年(1642)8月19日


この辺から、少しずつ本末関係に於ける、住持任命についての話も見えてくるのだが、このように、後任住持の問題について、小本寺(各地で末寺を複数持つ寺院)や、関東三箇寺(一般的には関三刹と呼称)などに相談して、決めるように促しているのである。関三刹は、実質的に幕府・寺社奉行の直下にあってその指示を受ける立場であったから、曹洞宗内に於ける最高の権力を持った寺院であった。つまりは、後任住持の選定について、幕府に由来する権力を元に決めるように定めていったのである。

一 本末の規式、之を乱すべからず。縦ひ本寺為りと雖も、末寺に対して理不尽の沙汰有るべからざる事。
    「諸宗寺院法度」「定」寛文5年(1665)7月11日


これは「諸宗」とある通り、宗派を横断して適用されるべき条文であった。4代将軍家綱の時代に定められているが、色々と江戸時代の文献を見ていくと、この「諸宗寺院法度」の影響は大きく、だいたい、江戸時代の僧侶が持っていた自己観念はこの法度に由来する印象を持っている。

一 檀方建立由緒之有るの寺院住職の儀は、其の檀那の計と為すの條、本寺に従い相談を遂げ、其の意に任す事。
    「諸宗寺院下知状」寛文5年7月11日


先に挙げた「諸宗寺院法度」とともに発出(こちらの署名は老中)されたが、かなり寺院の運用などに具体的な根拠を与えている。それで、この「下知状」についても、後任住職の問題が複数取り沙汰されているのだが、この一条が本寺との関わりを示すものである。要するに、或る有力な檀那(それこそ、大名などが想定されていると思われる)が建てた由緒ある寺院の住職について、どうしても、檀那が自ら思うような住職にしたいと思うところもあるが、まずは本寺に従って相談すべきことを促している。

ただし、実際には1700年代に入っても、各地の有力寺院の場合、檀那(大名など)の意向で住職が交替することはしばしば発生し、この「相談を遂げ」とはいっても、檀那からすれば、本寺に一言断りを入れる程度のものだったのであろう。

とはいえ、この一条は意外な影響を曹洞宗に与えており、江戸元禄期に曹洞宗では「宗統復古運動」が起きた。その結果、曹洞宗侶は、自らの嗣法は一回きり(一師印証)となったが、寺の系統に応じて住職出来る寺が定まっていたことに対応するため、伽藍法の相続も合わせて行われた。それが、「室内三物(嗣書・大事・血脈)」と「伽藍二物(伽藍大事・伽藍血脈)の重受」という発想なのだが、それを定めた法度は、「曹洞宗覚」となっており、元禄16年8月7日に両大本山に発せられている。それで、問題はこの法度を発する経緯の議論についてである。

 今度、一宗嗣法之儀、三箇寺江茂、御書出之写ニ、添書相添、遣之候処、差返シ候由、申聞候ニ付、請取候樣ニ三箇寺江申渡シ候間、御書出之写ニ、添書於茂、相添可遣候、但添書之内、他山仕候仁与里、其寺之血脈大事、後住江致相続与有之処ニ、以後、心得違ヒ可有之候間、他山之者、後住之義、本寺江遂相談、後住取リ、其ノ寺之血脈大事、可致相続趣、
 且又、寛文年中之御條目之通、檀方建立、由緒有之、寺院住職之義者、他山之仁与里、本寺江遂相談、従本寺且那江、申談相極可申候由、添状仕、相触可申候、以上、
    「永平寺總持寺江申渡覚(三奉行から)」元禄16年(1703)9月2日、『宗統復古志』巻下「〈歳)信受奉行皆歓喜」項


前半は、先に挙げた「伽藍二物の重受」について論じたものだが、その根拠として「寛文年中之御條目之通」としているところに注目している。要するに、これは「諸宗寺院下知状」を指しているのである。つまり、「伽藍二物」の強調は、「下知状」の条文に由来している。転ずれば、「下知状」は、末寺の寺院住職の選定に対し、本寺の発言権が増したことを意味しているのである。

そのため、この辺は既に【江戸時代「宗統復古運動」後の伽藍相続法】でも論じたことなので再論しないが、結果として江戸時代の曹洞宗では、本寺の歴代住職の法系に基づく伽藍法と、住職個人が受け嗣いでいる法系の人法とが併存した状態になっていたわけである。しかし、その理由として、幕府の法度の影響もあったことを考えた記事であった。

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