仏、般涅槃に臨んで、略して遺教経を説く。将に此の経を釈するに、略して三門を開くべし。
第一述大意とは、夫れ以れば、
善逝医王の尸羅の風、三有に扇いで熱悩の塵を除く。
遍知能仁の木叉の雨、法界に灑ぎ無上の芽を潤す。
浩汗たる善権、豈に測ることを得んや。
今、此の経は、此れ乃ち三世諸仏の真実の遺言、初心菩薩の入道の要門なり。聴聞の者、鵝珠を護り、修行の者、浮曩を存す。
経の大意、蓋し此の如くなり。
恵光『唐招提寺戒壇別受戒式』「第五講遺教経」
この部分から、『遺教経』についての解題が続く。なお、「将に此の経を釈するに、略して三門を開くべし」とある通りで、3つの項目で論じられているので、この記事も3つに分けて検討しておきたい。
まずは、「大意を述す」とある通りで、『遺教経』の大意を述べたものである。
そこで、まずは「善逝医王」たる釈尊が示した尸羅の風は、三有というあらゆる存在を扇いで、熱悩の塵を除くという。これは、持戒こそが、あらゆる迷いの根本を断ち切っていく流れになることを示したものといえよう。本来、その辺は禅定の役目であるようにも思うが、禅定を発現するのが持戒であれば、持戒を基本に据えたわけである。
続いて、「遍知能仁」とあるが、これは「正遍知」たる能仁(釈尊)による波羅提木叉の雨は、法界というあらゆる世界に濯ぎ、この上ない菩提へと伸びる芽を潤すという。そして、その水の広大なる様のような善権(方便)は、どうして推し量ることが出来ようか。
今、説いている『遺教経』は、つまりは三世諸仏の真実の遺言であり、初心なる菩薩が仏道に入る時の要文である。聴聞する者は、鵝珠(「鵝鳥が呑み込んだ珠」の意味で、比丘による持戒の譬えのこと。詳細は何かの機会に記事にしたい)を護り、修行する者は浮曩(浮き袋)を持っているかのように、苦悩の海に沈むことはない、としているのである。
つまりは、『遺教経』に説かれた持戒こそが、あらゆる衆生の苦悩を解消させることになるとしているのである。それを、これから受戒しようという比丘達に事前に知らせることが、ここで『遺教経』を講義した最大の目的だったのだろう。
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