つらつら日暮らし

「恩師の日」の「師恩」の記事

今日は、「恩師の日」らしい。設定経緯などは以下の通り。

恩師の日(「仰げば尊し」の日)(3月24日 記念日) | 今日は何の日(雑学ネタ帳)

それで、拙僧は色々と禅宗の師弟関係について研究したこともあったので、この辺の「恩師」のあり方について書いてみようと思う。参考までに、拙僧自身の本師は既に遷化しており、また、大学院で最もご指導を頂戴した恩師も、10年ほど前に遷化されている。

というか、そもそも「恩師」という用語は、仏教で使われるのだろうか?いや、無いな。この言葉、意外と新しいんじゃないか?それでちょっと考えたが、例えば「恩」を中心に見てみると、知られているのは以下の語句である。

・大恩教主釈迦牟尼世尊(『瑩山清規』)

やはり、拙僧どもは釈尊こそが「大恩教主」であるから、それを確認しておきたい。他に、以下の一節などはどうか。

一 宗門の学者、老少を択ばず、精勤修練し、相互に切磋し、要らず努力して法器と成るべし。是れ祖風を紹続し、恩に報答すること有るなり。然るに父母・師僧に孝順するの仏訓を忘れざれ。或いは剃度の受業師に於いて、或いは随身の参学師に於いて、当に躯命を惜しまず慇懃に給侍すべし。己利を念じて供給を懈怠するは、太だ師恩に背くと為す。況んや浮遊の二利に事うるは倶に知なるものや。是の法中の罪人、仏祖の弟子に非ず。
    『洞門亀鑑


要するに、曹洞宗で学ぶ者は、年齢などに関わらず、とにかく修行し、法器になることが、祖風を相続し、仏祖の恩に報いることになるとされているのである。ここから、「師恩」という用語が見出された。「恩師」という用語よりは「師恩」の方がイメージに近い。ただし、これは江戸時代の学びについて論じられた箇所だから、より「己利を念じて供給を懈怠するは、太だ師恩に背くと為す」などと強調されている印象があるが、例えば、以下の言葉についての註釈は「師恩」に報いる方法が多様的であることを示す。

先師も克家の子を得て、仏祖面稟の法を付嘱たと思われうが、夫れは却て永平に瞞ぜられたと云者、永平全く師恩受ぬ、いや又正法眼蔵先師より伝へぬがの、好ひ報恩じや那、
    『永平略録蛇足


これは、道元禅師が本師である天童如浄禅師の忌日に行われた上堂語への註釈である。その言葉は以下の通りである。

 天童和尚忌上堂、云く。
唐に入って歩を学んで邯鄲を失す、鼻直眼横に両般無し。
謂うこと莫れ天童学者を瞞ずと、天童曽て永平に瞞ぜらる。
    『永平元禅師語録』


この文言だが、『永平広録』巻2の巻末に入っている一則を抄出したものだが、内容は何故か大分異なっており、正直なところ、どれが正確なのか微妙なところだが、さておき、この教えの通り、道元禅師は如浄禅師に騙されることはなかったと述べておられる。そして、そのことを先の註釈では、「師恩受ぬ」と示したのである。

究極の「師恩」とは、受けないところにあるといえるのである。

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