以下の一節などはどうか?
血脈入棺
問、僧は印信を棺に入れ、俗は血脈等を棺に納む。是れ、経巻を焚焼するの咎ならずや。
答て曰く、罪は悪心より生ず。今、印信を帯し、血脈を持するは滅罪生善の為なれば、過無し。況や昔、日蔵上人、経と本尊と持ち玉ふを視て、琰魔王拝し玉ふ〈土砂勧信記〉を聞けば、今の印信・血脈は是れ仏祖相承の印璽なり。琰王、尚貴べし。而らば、血脈・印信等を亡者の身に帯せしむる事理ならずや。又、彼の随求陀羅尼を死骸に掛て地獄を脱せると同理なり。
子登編『真俗仏事編』巻4、カナをかなにするなど見易く改める
ということで、本書は享保13年(1728)に全6巻として刊行されている。文字通り、僧俗に関わる仏事について、項目を挙げ、説明が付された文献である。
今回問題にしていることは、以上の通りなのだが、僧侶の場合は「印信」を棺に入れ、俗人の場合は「血脈」を棺に入れるという。この「印信」だが、「いんじん」と読み、主に密教で、指導者(阿闍梨)が、法を伝授した証明として、弟子に与える文書とされる。だいたいの宗派で、類似した文書などはあるので、ここでは密教だけに限った話ではない。
そこで、問いについては、それらの印信・血脈を棺に入れて火葬にすると、「経巻を焚焼するの咎」になるのではないか?と尋ねている。この咎だが、大乗『大般涅槃経』巻18や『妙法聖念処経』巻3などで指摘されているので、その辺を受けたものであろう。
答えだが、罪は悪心から生ずとしつつ、「印信」「血脈」などを帯びて火葬されるのであれば、「滅罪生善」となるのだから、咎は無いとしたのである。更に、その事例として、密教僧であり修験者ともされる日蔵上人(10世紀の人)が、経と本尊を持っていたのを見て、閻魔王が礼拝した伝承を例示した。
これは、明恵上人の『(光明真言)土砂勧信記』に出ている。巻上で「無言断食」をしている間に、金剛蔵王によって天上界や地獄界などを見せられたというが、その途中で閻魔王に会い、持っていた本尊(大日・釈迦・弥勒・観音など、他に曼陀羅も持っていた)、経(法華・涅槃・最勝・仁王・金剛・理趣・般若など、他にも儀軌や陀羅尼などを持っていた)などを示したところ、閻魔王が合掌頂礼したという。
この辺などを理由に、「印信」「血脈」を亡き人に持たせる意味があるという。
なお、これをこのまま受けて、そのようなものかと納得する人は良いが、実際に、仏祖の相承物を焼いて良いかどうかは議論がある。よって、火葬にはせずに、遺族などが保管する場合もある。この辺が、教義的に一義に決まらない典型だといえる。
この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2016年
人気記事