演祖曰わく、所謂叢林とは、聖凡を陶鑄し、才器を養育するの地、教化の従出する所なり。群居類聚すると雖も、之を斉しく率い、各おの師承有り。
今、諸方、先聖の法度を務め守らず、好悪偏情なり、多く己の是を以て物を革む。後輩をして当に何れの法を取らしむるべきか〈二事坦然集〉。
『禅林宝訓』巻1
こちらの『禅林宝訓』という文献だが、中国臨済宗楊岐派の大慧宗杲禅師(圜悟克勤禅師の法嗣)と竹庵士珪禅師(仏眼清遠禅師の法嗣、なお圜悟と仏眼はともに五祖法演禅師の法嗣)が、先人の言葉を集め、更にはコメントを付すなどした文献を、沙門浄善が編集して中国南宋の孝宗皇帝の時代の淳熙年間(1174~1189)に成立している。
上記、「演祖」とは、五祖法演禅師の言葉であることを示す。意味を簡単に採ってみれば、いわゆる叢林とは聖人・凡夫をともに仏祖として作り直し、才器として養育する場所であるという。この辺は陶器などを作る様子に喩えている。そして、教化もまた、出て来るところであるという。この場合は、仏祖として教化していくということだろう。
様々な立場や才能の僧侶が群居しているが、それらを分け隔て無く育て、それぞれに師承を得るまでにしなくてはならないとしている。
その折、五祖法演禅師は批判したことがある。それは、諸方では先聖の仏祖が定めた法度を守らずに、善し悪しを自身の感情に基づいて、特に自分が善いと勝手に決めた法度を決めているという。そうなると、後輩の修行者は、どのような法で学ばせるべきかと問題提起している。
近代の叢林、規矩を力役する者有り、規矩を死守する者有り、規矩を蔑視する者有り、斯くは皆、道に背き理を失して、情を縱ままにし悪を逐て然りと致す。
『禅林宝訓』巻2
こちらは、仏眼清遠禅師が、百丈懐海禅師が「清規」を定めたことへの言葉なのだが、規矩(清規・軌範)の接し方、実践方法について、非常に分かりやすい教えである。余りに規矩に力を入れ過ぎるのも、死守するのも、一方で蔑視するのも全て良くないとしている。それでは、何が正解なのだろうか?実は、仏眼禅師はこれが正解、という言い方よりは、何がダメなのか?を指摘していて、「道に背き理を失して、情を縱ままにし悪を逐て」という部分に、その意図があると見て良い。
つまりは、禅宗は独自に悟りを求める宗派であるからこそ、どうしてもその自分自身の主観を(本来はそこを否定した上で、仏道に至るが)強調しすぎてしまうことを批判していることになる。それを規矩への接し方という観点だと、上記のような教えになるといえる。この辺、教条主義的発想をする人には、絶対に辿り着けない境涯なのである。
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