結冬安居日、
僧問う、安居何を将てか面目と為すや。
師曰く、函蓋合して箭鋒拄う、
進みて曰く、恁麼ならば則ち頭頭瞿曇の眼睛、箇箇達磨の骨髄、
師曰く、是是不是不是、
進みて曰く、是ならば也た得、不是ならば也た得、
師、便ち打す。
『月舟和尚遺録』巻上
加賀大乗寺26世として、明峰派の中興をされた月舟宗胡禅師への問答である。結冬安居日とあるので、どの年かの10月15日だったと思われる。もしかすると、結冬の上堂か小参をされた上での問答だったのかもしれない。
内容だが、或る僧侶が安居の面目(様子)とは何か?と尋ねたところ、月舟禅師は石頭希遷禅師『参同契』の二句「事存函蓋合、理応箭鋒拄」を繋げて先のように答えた。これは、仏法(理)と現実の修行(事)とが合しているという修証一等の境涯を示したものだといえる。
ところが、これを事の側で無分別に捉えてしまうと、或る僧侶の答えのように、全てが釈尊の眼睛(大事なもの=仏法)で、全てが達磨の骨髄(仏法の真実)だと解釈されるのだが、月舟禅師は答えの危うさ(つまり、全てが仏法ならば修行不要になる可能性があるため)を示すため、「是是不是不是」と、是不是の問題を示しつつ、問者に返している。
すると、その僧は「是」でも「不是」でも全てを「得」と、またしても無分別の立場から返した。月舟禅師はその僧を打っているが、これなどは最終的に本人の修行次第だぞ、と示したことになる。よって、答えの可否は保留されているのである。
結局は安居であるから、修行次第になってしまう。この無分別の立場に立った問者は、どのような修行をされたのか、それだけが気になるところである。
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