つらつら日暮らし

中国禅宗六祖慧能の受戒をめぐる曹洞宗内での議論について

中国禅宗の六祖慧能(638~713)については、以下のような伝記的記述が残されている。

二月八日、法性寺智光律師に就いて満分戒を受く。其の戒壇、即ち宋朝・求那跋陀三蔵の置くところなり。
    『景徳伝灯録』巻5「慧能禅師章」


それで、問題はこの「満分戒」と呼ばれるものが、いわゆる声聞戒(比丘戒)なのか?菩薩戒なのか?ということである。この点について、以下のような議論があった。

六祖大師受くる所の具足戒、是れ菩薩大乗戒なり。〈中略〉則ち智光の授くる所、決して菩薩大乗戒なり、疑うべからず。
    石雲融仙『叢林薬樹』上巻、『曹洞宗全書』「禅戒」巻・22頁上段


なお、この根拠については、よく分からない。様々な経論は引用しているけれども、石雲の見解を直接確定してくれる文脈は無いのである(ただし、具足戒を菩薩戒と見る文脈は存在している)。ただ、石雲は「満分戒」とは菩薩戒だと信じて疑わなかったようである。よって、直接本書に対してかどうかは不明だが、以下のような批判が存在している。

  六祖の満分戒〈第十〉
 問、六祖壇経に、普く四衆を会して、師の為に薙髪し、諸名徳を集め、具足戒を授く、とあり。正宗記も爾り。伝灯録には、満分戒を授く、と見ゆ。具足戒・満分戒、共に菩薩戒のことか。
 答、この具足戒とは、声聞の二百五十戒なり。満分戒とは、優婆塞の五戒なり。具足戒を満分戒と称すること、戒書に見得せず。ただ法蔵大師の伝に、沙弥の後に、満分戒を受とあり。伝記書する人の違却にてはなきか、博聞に尋ぬべし。六祖大師正伝大戒は、五祖室中の面授なれば、伝記に書せず。況や有髪行者にての伝法なれば、嗣続さへその時の人は不知なり。俗体にて漁家に、十五年の光陰を送て、弘法の時至て剃髪なれば、授戒の表儀無ては叶わじ。ゆへに先優婆塞戒を授て、次に沙弥戒、次に具足戒を授けたるなるべし。これ律家の常式なり。それを伝灯には、初の満分戒ばかりを記し、壇経には、後の具足戒ばかりを記せしは、互に略記と見へたり。
    面山瑞方『仏祖正伝大戒訣或問』、前掲同著・125頁下段~126頁上段


さて、先ほど採り上げた「満分戒」については「優婆塞戒」であるとしている。つまり、在家信者(男性)が受ける戒のことをいう。これの根拠については、『優婆塞戒経』に「若し三帰を受け、五戒を受持すれば、是れを満分と名づく」とあることに依るのだろう。そして、様々な文献を見る限り、この『優婆塞戒経』の見解が依用され、「満分優婆塞」なる言葉まで出て来ているので、一つの見解として頂戴しておくべきなのだろう。だが、禅宗の伝記には六祖とは別の僧侶の場合に、「往きて昭覚に依りて得度し、満分戒を具す。後に衆に随って咨参す」(『嘉泰普灯録』巻10「成都府信相正覚宗顕禅師」)という言い方もしていて、この場合には「満分戒」とは「比丘戒」のことだと考えるべきであろう。

そこで、六祖の場合には、確かに伝記によって具足戒とも満分戒ともいわれているけれども、これはともに「比丘戒」のことだと考えるのが自然である。面山は必ず、優婆塞戒⇒沙弥戒⇒具足戒(比丘戒)という流れであったと信じていたようだが、実際にはいきなり具足戒(比丘戒)を受ける場合だって許容されていたはずで、優婆塞戒や沙弥戒は、その由来からしても、受けていなくても問題は無かった。

菩薩戒は一応、五祖弘忍禅師から受けていたと称していたとしても、誰にもその真偽は確認されないし、しょせんは禅宗の室中での出来事であるから、その点は問題が無い。また、『六祖壇経』などを見ても、重要なのは菩薩戒であって、六祖自身がどのような経緯で比丘になったかは重要ではない。

それで、何故面山がこのような見解に至ったかであるが、やはり黄檗宗が伝えた『弘戒法儀』の影響なのだろうか。同作法では、始めに三帰戒から始まって、五戒・八戒、沙弥戒、具足戒、菩薩戒という風に順番を追って次から次に戒を授けていくことになる(無論、その途中で終わることもあって、全てが全員に授けられるわけではない)。よって、先のように考えたのかもしれない。

この辺は、大僧になるために必要な戒の内容に繋がることであるし、現在の宗門は全て「菩薩十六条戒」のみとしているため、このような議論自体が顧みられることがないが、実際には必要である。特に「声聞戒」との関わりは、現代に於いても再考されて良い。実際に受けるかどうかという話をすべきではないと拙僧自身は考えているが・・・

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