この彼岸会を暦に載する故に、昔時談義説法は、比叡山の坂本に限り、廿一箇所談議所ありて、能弁の僧出席して、説法することにて、他の寺院などには、絶えてなかりし。故に都鄙善信の男女坂本に群集して、聴聞するもの、彼岸の時節を弁知せずして、毎度迷惑せしゆえ、坂本より暦家を請ひて、暦本に書き載せもらひしより、いつとなく時候の様になりたり。
『善庵随筆』
この件について、一応は色々と調べた。要するに、比叡山での談義説法が余りの人気となり、人が集まったが、彼岸の時節を理解できずに、なかなか迷惑するから、暦に載せたという。そして、いつの間にか季節の行事のようになったというが、これも含めて良く分からない。「坂本の談義説法」で調べると、上記文脈が引っかかってしまうので、当方の拙い能力では、ここから遡ることが出来なかった。
よって、善庵が記した別の文章を見たほうが良さそうだ。
昔は春分秋分の日を彼岸の中日に当る様にせしと、安倍家の暦本に見えたりと塩尻云へり。
同上
おや?『塩尻』というのは、かの尾張藩士・天野信景(1663~1733)の随筆なのだろうか。
◯凡暦家春秋の彼岸会を紀す事久し昔は春分秋分の日を中日にあたるやうにせし事安倍家暦本に見えし近世春秋二分より三日目を其初として六日目を中と定め九日目を終りとす古へは彼岸に入る日若没日にあたれば一日をのべて次日を入とせし故実なりし
『塩尻』巻9
間違いない、ここが典拠のようである。さて、前半はともかく、後半で天野が指摘していることは何であろうか。つまり、元々は今と同じように、春分・秋分が中日であったが、近世(要するに、江戸時代に近い時代)では、二分より三日目を初めとして、六日目が中とあるから、彼岸会の後半が主であったということか。でも、それだと中日の意味が無いように思う。
一応、明日が中日ではあるが、その前に微妙な記事を挙げてしまった。とりあえず、朝川善庵の見解の検討はここまでにしておきたい。
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