つらつら日暮らし

決定法はそれほどに大切か?

なんでも、最近読んだ、或る在家信者の方の文章によると、説法に於いては、確固たる“信念”を述べてくれるような禅僧がありがたいそうだ。確かに、そういう評価も必要かもしれない。

なお、拙僧は、その方に何ら含むところはないので、以下の記事はあくまでも拙僧自身の問題意識に於いて考えていくのだが、正直、信念を述べることについては不可解な思いがしている。もちろん、全く歯も立たないような禅語録や、『正法眼蔵』といった著作を読むために、師から読み方を習うことがあるのは良いだろう。しかしながら、師が確定的に述べてくれることというのは、そんなにありがたいことなのか???

また、拙僧は以前から、確定的言説を特定の師に求める態度に、「教条主義」を感じている。今回は、その想いというか、疑問を元に記事を書こうと思う。何だって人は、こういう「誰かに決めてもらうこと」を希望するのだろう?もちろん、全て自分で決めて良いなんていうつもりもなくて、それはただのワガママだと思うのだが、何もかもを、「有名な人の言葉」に依拠するというのは、余りに牧羊的ではないかと思うのだ。

羊を装っても良いけど、たまには“牙の生えた羊”(冬目景『羊のうた』7巻参照)になってみるのも良いのではないかと思う。だいたい、そもそも、物事って、そこまで“決まって”いないとダメなものなんだろうか?確かに、仏教にも「了義経」だとか、「決定法」だとかいう言葉にあるように、教えが全て説き明かされていることに一定の評価をすることがある。されど、むしろ、そういう考えに反対する場合もある。例えば、以下のような教えはどうだろうか?

為説は、かならずしも自他にかかはれず。他のための説著、すなはちみづからのための説著なり、自と自と同参の聞・説なり。一耳はきき、一耳はとく、一舌はとき、一舌はきく、乃至、眼耳鼻舌身意根識塵等もかくのごとし。さらに一身一心ありて、証するあり、修するあり。みみづからの聞・説なり、舌づからの聞・説なり。昨日は他のために不定法をとくといへども、今日はみづからのために定法をとかるるなり。
    『正法眼蔵』「自証三昧」巻


そもそも説法というのは、「説く人-聞く人」という関係ではないというのだ。説く人は説く人で、その舌の上に説法も聞法も具わり、聞く人は聞く人で、その耳の上に説法も聞法も具わっている。もちろん、その逆も然りだ。そして、法により現成したる事実からすれば、昨日は他のために不定法を説いても、今日は自らのために定法を説くこともある。そもそも定や不定とは何を指しているのだ?何が定まっているのだ?何が定まっていないのだ?確信とは何か?不信とはそんなに悪いことなのか?

道元禅師の教えを学んでいくと、その言説に巻き込まれながら、徐々に自らと世界との関わり方自体が変化することがある。いわば、学びを進めていくことによって、自らの常識自体が組み替えられる「解釈学的運動」が発現するのである。だからこそ、昨日、或る人に対して説いていた教えが、そのまま次の日には自分にとって仏教の確信を得させる教えにもなれば、その逆もある。良く、「法とは客観的理法であるから、人や時・処によって変化することはあり得ない」と語る者がいるが、その何と楽天的なことか?だいたい、この「客観的理法だ」という枠組み自体が、近代の実証主義的科学観を無批判に受け入れたに過ぎない、或る種の誤謬ではないのか?

例えば、道元禅師の言葉の中に、「何必」といい「恁麼」と良い「説似一物即不中」といわれたりする。これらは、定法なのだろうか?不定法なのだろうか?「見成これ何必なり」(『正法眼蔵』「現成公案」巻)と断言されたりすると、それだけで分かった気になって「何必っていってもらえた」と満足してしまうのだろうか。しかしながら、これらの言葉の内容は、特定の事象を言得しないというところを示す言葉だから、要は「何も言えていない」事になってしまう。或いは、ようやく言葉を紡いでも、その内容は、言葉の意味性を自ら否定するようなものだともいえる。

拙僧つらつら鑑みるに、特定の言葉を断言的に語る師というのは、何も分からない参学者にはちょうど良いのかもしれない。しかし、拙僧は、そういう物わかりの悪い参学者が「●●老師はこう仰っていたから」と、言葉の受け売りをすることもまた問題であろうと思うので、「決定説」にばかり固執するのは、学ぶ過程として難があると考えるのである。無論、我々が学ぶというのは、仏祖の行いや言葉に没入してから始まるものだが、されどその中で“受け売り”に終わるのは恥ずべきことだ。つまり、良い師であれば、敢えて「不定法」を説き「弟子に考えさせる」ということをしてくれて良いのではないだろうか?

この両方に、指導法の特徴・特長があるからこそ、先に引いた道元禅師の「自証三昧」巻のような教えも出てくるのだろうと思う。

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